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2002年04月28日

兄の結婚

 兄が結婚した。

 僕の兄はアメリカの一流大学を卒業し、大きな外資系企業に勤め、重要な仕事を任され、毎月たっぷりの給料をもらうエリートだった。顔は二枚目、スポーツ万能。当然女性によくもてた。そんな兄は僕の自慢であり、憧れであった。そして、幼少の頃から彼がどんな人と結婚するのか、ひそかに楽しみにしていたものだ。

五月のさわやかな風ふく土曜の午後、ゴルフの練習にいそしむ父、趣味のガーデニングに精を出す母、そして部屋で漫画を読んですごす僕を居間に集め、兄は結婚すると宣言した。何をやっても優秀で、いつだって親の手をわずらわせることなく今までやってきた兄。何をするにも相談なく突然に決めてしまうんだ。相手が誰かなんて僕たちには全く検討がつかなかった。ただし、これまでの兄の華麗なる経歴を考えれば、それはきまって最高の選択であり、兄の花嫁に選ばれたその人とはきっと素晴らしい人に違いないと思った。どんな人なの?期待に胸をふくらませ、身を乗り出して尋ねる僕。すでにもうここにいるよ、微笑みながら、兄は扉を開けた。あっけにとられる僕ら。声にもならない驚き。はたして、そこにいたのは、日ごろから僕らがよく見知った我が家の愛猫モモちゃんではないか。

 確かに兄とモモちゃんは仲が良かったが、まさか恋仲にあったとは露知らず。恥ずかしそうに兄に寄り添い、両手をそろえて座るモモちゃん。

 実はオレこいつと結婚しようと思う、と兄。ウニャニャーン、とモモちゃん。

 二人で暮らしたいんだ、と兄。ゴロニャン、とモモちゃん。

 父は極めて常識的な人間で、いまにも兄に飛び掛るのではないかと隣にいた僕はハラハラしながらその横顔を眺めた。しかし、意外にも父はコクリとうなずくのであった。そしてこんなことを言うのだ。こうなることを密かに願っていたと。

 反対したのは母だった。私のモモちゃんを盗らないで!と母はヒステリックに泣き出した。おもえば、兄がアメリカへと留学し我が家にいない間も、僕が夜な夜な盛り場で悪友らと遊び狂う間にも、いつも母のそばにいたのはモモちゃんであった。

 母はモモちゃんを溺愛し、我が子である僕ら以上にかわいがっていた。エサをやり、トイレの掃除をし、ブラシをかけるなどモモちゃんの全ての世話は母がしていた。そしてその愛情に、毎晩、冷え性の母とともにベッドにもぐるという行為でモモちゃんは応えた。

 しょぼくれる兄。泣き叫ぶ母とモモちゃん。
 その夜、僕は母の部屋からニャーニャーと必死に鳴くモモちゃんの声と、おそらくは涙交じりであろう母の声を聞いた。

 明くる朝、喜びにはしゃぎまわる兄と、これまたうれしそうにゴロゴロ寝返りをうつモモちゃんがいた。モモちゃんがどう母を説得したかはわからないが、母はすっかりニコニコ顔で、私の大好きなふたりが結婚するんだもの、とっても素敵なことだわと、僕にいうのであった。無論ボクは、愛し合う二人に反対する理由などなかった。二人が幸せになればそれでいいと思った。ただし、ひとつの問題を除いては、である。幸せいっぱいのこの空気の中、この問題をだしていいのか迷ったが、その晩にも僕は兄にだけは言っておかなくてはと兄の部屋のドアをたたいた。

 結婚式の招待リストをつくる兄の背に僕はなげかけた。

「ねえ、あのさ、モモちゃんってたしかうちに来たその年に去勢手術したんじゃなかったけかな・・・だからさ、ほら、ふたりの子供ってのは・・・」

 振り返りもせず兄が言った。

「ははは。そんなこと承知の上さ。そもそもおまえ、モモちゃんは猫だよ、人間のオレと子供なんかもてるものか。おまえ、おつむは大丈夫かい」

 9月の下旬、一人と一匹の結婚式が盛大に執り行われた。

 古い小さなそれでいて品のよいその結婚式場に全親戚、兄の友人、知人達、モモちゃんの生みの親である吉岡さんちのブチや、モモちゃんがうちにもらわれて来たようによその家庭へと散らばっていった姉妹のチビやクロやチャトランやカトリーヌらが集まった。残念なことに父親のノラの姿はなかった。

 結婚式ほどくだらないものはないと常々思っていた僕であったが、この結婚式はこころから楽しめた。ふたりのデュエット「犬のおまわりさん」では、皆が笑顔で見守る中僕だけが感極まって涙があふれそうになったりもした。

 二次会、お決まりの胴上げの後、ふたりはハネムーンに旅立った。行き先はモモちゃんの希望でエジプトへ。スフィンクスがどうしても見たいのだそうだ。

 ピラミッドを背に幸せそうな一人と一匹の写真が我が家に届いた。兄のとても幸せそうな文面の隣には、同じく幸せそうな砂まじりのモモちゃんの手形がそえられていた。

 ハネムーンから帰ってくるなり兄は家を購入した。いくら高給取りとはいえ、まだ25歳の兄にとってそれはあまりに大きな買い物ではあったが、外出の好きなモモちゃんのためマンションでは暮らせぬし、いつか買うものなのだからと兄は僕らにそう説明した。なあに、ローンなんてオレが必死に働いてすぐ返しちまうさ、と、家庭を持つ一人の男として頼りがいのあるところもみせた。

 一人と一匹がいなくなった我が家は閑散とし、ぐっと哀愁をおびた父と母の背。

 もうすぐ大学受験を控えた僕はというと、これまた厄介このうえない感情にうちひしがれているわけだ。我が家にモモちゃんがいないことが、たまらなく悲しいということ。家のあちこちに、モモちゃんとの思い出、その面影を感じ、胸にぽっかり穴があいたような気分とはこのことかと、しみじみと思ったりする。僕は気がついたのだ。兄と同様に僕もまたモモちゃんを異性として意識していたことに。僕はどうやら失恋してしまったみたいだ。

 しかしなんといっても、愛するモモちゃんの結婚相手が僕の最も尊敬する兄ならば、それはもう文句のつけようのないカップルなわけで、まだまだお子様の僕なんかは、つつましくバラ色の大学生活目指してお勉強に励むしかないわけだ。

 そんなことを考えながら学校から帰宅し、玄関を開ける僕。靴紐をとくその耳にふとニャーンという猫の鳴き声を聞いた気がした。

 居間に入ると、母がいた。

「あら、おかえんなさい」
「うん」
「あのね」
「なに?」
「吉岡さんちのブチがまた子猫生んだんですって」
「ほう」
「それでね、実はね、一匹もらってきちゃった。和室のほうにいるから見てごらんなさい」

 鞄を放り投げ、すぐに玄関横にあるその部屋へと向かった。

「オス、メス、どっち?」

 僕の声は震えていた。

「メス猫よ。それが小さい頃のモモちゃんそっくりなのよ」と、後ろから母の声。
カッと胸が熱くなり、襖にかけた手がぶるぶるとふるえた。

投稿者 hospital : 2002年04月28日 13:11