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2002年09月29日

実験夫婦

このところ夫婦の会話らしい会話が全く無い。数年前に上司の口利きで成立した縁談で、それほどの思い入れもなく、相手のほうはよそよそしい態度だったので断られるかと思ったのだがなんの因果か婚姻が成立してしまい、よって結婚した我々夫婦。そんな夫婦仲は見た目はなにも問題もなく平和のように進んでいるのだが当然のことだが、うまくいっているというものとは程遠く、子供はまだ無い。帰宅し、ただいま、と呼びかけるとそれに呼応して、おかえり、と妻が気の無い返事をテレビに向いたまま背後に返す。それだけだ。

 若い頃描いていた夫婦とはこのようなものではなかったのだが、人生というものに一切主観をもって臨まないという私の信条があるため、事なかれ事なかれと全ては進んで行き、結果このような夫婦仲に結実したわけだが、数週間前そのあまりの会話のなさを逆手にとってか、ただいま、の代わりに、ただいまっしぐら、と妻に呼びかけてみた。それが私の精一杯の家庭生活に対する道化なのだった。しかし、妻はいつもどおり、おかえり、と呼応したのだった。そう、彼女は私の呼びかけを完全な音として認識しており、ただいま、という言葉になんの意味も付与していないのだった。次の日、帰宅した私は、ただいま、の代わりに、おっすエベレストから無事戻って参りました~、と呼びかけてみた。すると、妻の、おかえり。このように、我々夫婦仲は常に円満にすべては事なかれ事なかれと進んでいったのだった。

 家庭が完全に形式化してしまい、私はその形式の中の因子として存在する。彼女もまた、その形式の中に存在する要因として存在していることになんの疑問ももってかもたずか、ただ、いる。そうか、全ては形式なのかと私は合点してそろそろ子を設けよう、全ては形式なのだから、今そこにある座布団を子供として認知してしまえば、それもまたありえるのではないかと着想し、実行した。私は座布団に呼びかけてみた。「おい、さとし。学校の勉強のほうはどうだ。みんなとうまくやっているか?ところで、さとし、夕飯はもう済ませたのか。」私はそれが座布団であることを忘れ、本当の子供のようにいつくしむ父親を体現したのだが、心の奥底では妻の「あなた、それは座布団よ。気がおかしくなっちゃったの?」という呼応を待ち望んでいたのだが、妻からの返事は「さとしはさっき夕飯すませたわよ、お父さん。」だったのだ。「そうか、しかたない、母さん飯をよそってくれ。」とだけしか私は言うことが出来なかった。

 完全な形だけの夫婦。そんな形式のなかに私はいつのまにか、はまってしまったのだな。なにもかもが順調に見えるこの景色はすべて虚像なのだな。虚像の中の私に一体いくらの意味があるのだろうか。今こうして息を吸って飯を食べて排泄をする。この一連の活動は全て形式なのか。現代の合理化に嘆息する暇などない。私はただ、社会に存在する一定のプロセスを履行するための因子にすぎない。そんなことはとうの昔に分かりきっていたことだったのに、そして、だから私の信条が生成されたはずだったのに。

 今朝私は形式の中で目を覚ました。目覚まし時計がそれまで見ていた私の夢を壊す。現実が始まったのだった。形式的にコーヒーを飲みくだし、パンを齧る。服をきがえ、扉を開けて、私は出発する。その背後には妻の、いってらっしゃい、が響くのだ。

 完全なる形式とやらに、私の信条に反し穴をあける。社会の形式を支える流通に私は穴をあける。駅のホームでそんなことを考え、私は空気を震わせ構内に入ってきた電車のまえに飛び込んでみたのだった。

 厳正な形式にのっとり除去された私の散り散りになった肢体。一体なんの意味があろうというのか。全ては虚像の中へ消えていく。

投稿者 hospital : 2002年09月29日 09:53