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2003年05月05日

ますみふたたび

目の前を太平洋から地中海に勢いよく海流が流れ込んでいた。
海水はところどころ波頭を白く砕きながら、海峡の向こう側とこちら側を歴然と分かつ。

ますみは港に居る。

そんな噂を聞いて俺は旅に出た。
ますみに死刑判決が出たということを、俺は会社帰りのバスの中で聞いた。
ますみは笑っていたという。
ますみは何を思っていたのか。近頃そのことばかりを考えていた。
そんな折にますみから手紙が届いた。
近いうちに脱獄するという事、もう私のことは忘れて欲しいという事が書いてあった。

その一週間後、多摩川で見つかったアザラシのニュースの最中、
ニュース速報としてますみの脱獄が世間に伝えられた。
あのアザラシは俺にますみを思い出させる。
ますみもカレーにヒ素を混入させた殺人者としてではなく、
たまに川に出没する不思議な女性として世間に知れ渡っていたなら
あのアザラシのように愛されていたのかもしれない。


ますみ。

海を見ながら俺はそうつぶやいた。
もう一度。今度は少し大きな声で言ってみた。

ますみ。

俺はなんだか居たたまれない気持ちになって大声で叫んだ。


ますみ!

「すっぱぁぁい。」

岩陰から低く甲高い声が聞こえた。
姿を現したのはますみだった。
黒いウエットスーツを着て、頬の辺りにはマジックで髭のようなものが書いてある。
濡れたウエットスーツの表面が太陽の光を反射してキラキラと光っている。

ますみは上目使いで俺を見ると無言でノソノソと俺のほうに近づいてきた。
そして、目の前まで来るとゴロンと何も言わず腹を見せて寝転がった。
猫が甘えてする仕草に似ていた。

「ねえ。肩もんで。」

ますみはぶっきらぼうに言った。
俺は何も言わずますみに近寄ると、昔と同じようにますみの肩を揉み始めた。
ますみの大きかった背中が前よりも少し小さく見えた。以前の迫力はない。
ただ決して揺るぐことのない固く冷たい決意の跡が、そこにははっきりと刻まれていた。


「愛していいよ。」


ますみがつぶやいた。

俺は表情を変えず、黙々と肩を揉みつづけた。

背中。

人の背中に人生が刻まれるのだとしたら、俺の背中には何が刻まれるのだろうか。
ますみの背中は俺にそんなことを思わせる。

「愛していいよ。」

ますみが呼んでいる。

ますみの表情は変わらない。
黒ずんだ目のふちのシワが、春の地中海の強い風にもびくともせず疲れた表情を浮かべている。
俺はますみの背中ごしに夕暮れの水平線を見ながら、恥じもせずボロボロと泣いた。
頬を伝わり落ちる涙がますみのようやく乾いたウエットスーツを再び濡らしていた。


日が完全に沈んだ頃、ますみはのそりと起き上がり
何も言わず岩場のほうへ歩いていった。
そして、俺のほうを一回だけ振り返ると

「すっぱぁぁい。」

と叫び、ジャブンと海の中へ飛び込んだ。

投稿者 hospital : 2003年05月05日 09:30