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2003年07月22日

食べる時の目で

「食べる時の目が好き」

ミヨ子はうっとりとした表情で、朝食をとっている私の横顔を眺めている。


私がミヨ子と見合いをしたのは平成元年のある晴れた夏の日のことだった。お互いの第一印象は違った。私はミヨ子のことを、「ピンク色の服が似合う可憐なお嬢さんだ」と思ったが、ミヨ子の私の第一印象は、「ウルトラマンに出てくるバルタン星人だったとしたら、笑える」だったそうだ。
その時の私は別段バルタン星人に似ていたわけでもなく、食膳を眺めてみればバルタン星人を連想させる食材が並んでいたわけでもなく、

「おまえ、一体、なに考えてるんだ?」

と、ミヨ子に問いかけてしまった私の心境を読者諸賢にはいかが察してもらえるだろうか。

「なにって、幸福のことよ」

そう答えるミヨ子はどこにでもいる幸せを願う平凡な女性とまったく変わらない。しかし、彼女はある一線を越えるととたんに豹変してしまうのだった。その境目がどこらへんにあるのか結婚して随分と経つが未だに夫である私の理解を超えている。

「食べる時の目が好き」

冒頭にも書いたが、ミヨ子はたまにこんなことを言う。決まって私がトイレで用を足している時にだ。便器に腰掛け踏ん張っているとき、突然ドアがバタンと開き膝頭をしたたかにうつ。あまりに唐突のことに唖然としていると、半分開いたドアの向こうからミヨ子が私を眺めていて、「食べる時の目が好き」と、こう語りかけるのだった。
そそくさと後始末を終えて、私はミヨ子を押しのけてから便所を去る。その背中にミヨ子は、「いくじなし・・・」と寂しそうに語りかける。
どうすればいいんだ。

朝、会社に行く前、私はミヨ子の作る朝食を待ちながらゆっくりと新聞を読む。この時間が私にとって最も大切な時間であり、この時間がなくなってしまったら、私の仕事ははかどらないことだろう。
盆の上にスリッパを載せてミヨ子がダイニングに登場した。

「食べる時の目で、食べて」

ミヨ子が出したそれは紛れもなくスリッパであり、土台食べるものとは程遠く、人というものは何かを食べる時には自ずと『食べる時の目』になるであろうが、それは『食べ物を食べる』という前提条件があってのことであり、しかしミヨ子が私の前にだしたものは、スリッパであるからして、その要望は到底通らないものである。唖然とした私の顔を見て、ミヨ子は、はっとした表情をしたかと思うと、はにかんでそそくさとキッチンへ去った。

私はミヨ子がとうとう狂ってしまったのかと、一瞬肝を冷やした。ミヨ子が狂ってしまったら私の幸福な生活も終わりだ。ミヨ子が狂ってなくてよかった。そんなことを思いながらミヨ子が去ったキッチンを眺めた。
思い出のキッチンである。ミヨ子と私がお互い様々な意見を出し合って建てたマイホーム。便利なキッチンが中心で、これなら私も思い切って腕を奮えると、ミヨ子は目を輝かせていたものだ。幸福な回想に耽っていると、ミヨ子が戻ってきた。
盆の上に載せられているのは、しかしスリッパであった。一つ変わったことといえば、そのスリッパが先ほどは来客用のものだったのが、今は私用のスリッパであるということだけだ。

「大変っ、あなた、会社に遅刻しちゃう」

私は諦めて、玄関を駆け出した。バス停まであと50mくらいのところだろうか。後からスリッパを手にしたミヨ子が私を呼んだ。

「お腹がすくと思って・・・」

私は結局スリッパを口に咥えながら、走り出した。後でミヨ子は、「まるで漫画に出てくる女子高生みたいね」と幸せそうに笑っている。ミヨ子の発言に間違いなど一つも無い。私たちの幸福に間違いなど微塵もない。ただ私に言える事は、遅刻しそうな女子高生はスリッパなど咥えて通学しないということと、本当に咥えるべきものは食パンであろうということと、そして、私が今かみ締めているのは本当に幸福の味だということだ。

投稿者 hospital : 2003年07月22日 10:27