« 最後のディスクレビュー12 | メイン | 回想 »

2003年09月16日

柔のセンチメンタル日記(夜風)

コ・ツ・バ・ン


切なかっただけ。

アタシはバーのカウンターにお酒をちょっとだけこぼして、小指でもってそれをのばして

『コツバン』と書いた。

若いバーテンが横目でそんなアタシを見てる。
バーテンは嫌いじゃない。
『サインください』なんて言わない。『おめでとうございます6連覇』なんて
野暮なことも言わない。

世界選手権6連覇。前に出る自分。

私の夫 『谷』についての話をしようか。
谷は野球選手で今はシーズン中で忙しい。
彼なりに厳しい目をしている。厚い胸板をしている。

「決勝戦には間に合うから」

彼は朝そう言って家を出た。野球の試合後すぐにかけつければアタシの決勝戦に間に合う。
案の定、彼は間に合った。

テレビにもその姿は映っていたようだ。
アナウンサーをしている藤原ノリカが得意気に解説する。

「あ。谷君が応援にきてますねー」

谷は厳しい目をしていた。そんな谷の横顔がテレビ画面に映し出される。
世間にせいせい堂々後押しされるカップル。


幸せでも うらやましくないカップル。

アタシは優勝した。いつものように。

試合後のインタビュー

アナウンサーをしていた藤原ノリカがはしゃいでいる。

「おめでとう!ヤワラちゃん!」

殺すぞ。

「世界選手権6連覇!」

知ってる。

「そして谷君とのプライヴェートも充実!今や日本中の女の子の憧れですね!」

歯が浮くんだよ。頼むからやめてくれよ。

「何か一言!」

うっとうしいんだよ。本気だよノリカ。お前と私の歯が世間と歯茎から浮いてんのがわかんねえかなぁ。


ノリカは自分でも照れていたようだ。

馬鹿な女。


馬鹿?馬鹿なのはアタシ。

前に出る自分。

バーのカウンターにお酒で書いた『コツバン』の文字が広がり一つにつながって『ゴファン』 になった。

アタシはカウンターに両肘をついて手のひらの中に顔をうずめた。


バーテンが静かな声で言った。

「もう一杯おつくりしましょうか」

ああ。よろしく。

「ロックで?」

ロックで。


前に出る自分を取り戻したい。

そのことだけを考えていた。

前に出る自分。
谷と私の『真実』に気づきもせず、ただ万面の笑みで『タワラ―』と言えた頃のアタシ。
大きくてまっしぐらなダイアモンドの指輪をテレビの前にさらけ出したアタシ。

何も知らなかった頃のアタシ。


ノリカに

「日本中の女の子に一言!」

と言われた時。アタシの頭の中に一言。


コツバン


の文字が浮かんでいた。

「コツバン。」

あの時、ガッツポーズをしながらそう言えたら良かったのかもしれない。

でも現実は違った。アタシは冷静な顔を崩すこともなく

「一言といわれても・・」

と答えた。常識をわきまえた大人な答えだった。

どうしたヤワラ。間違ってないじゃないか。

谷の目がそう言っている気がした。


お前いつも間違ってたじゃないか。

平均点を取る女じゃなかったじゃないか。

お前はいつだって畳のエッジに立ち、そこから俺に笑いかけた。

お前。馬鹿まっしぐらだったじゃないか。

今のお前は?

谷の厳しい目の裏にはそんな思いが隠されていたに違いない。


グラスの中の氷が溶けて、小さな音を立てた。

アタシはバーテンに小さな声で言った。


「ヤワラなんですよ。アタシ」


バーテンはアタシと目を合わせず他の客の氷を砕きながら静かに微笑んで答えた。


「知ってますよ」


救われた気がした。


アタシはグラスからまたお酒を少しだけこぼして


マ・ン・コ


と書いて店を出た。


夜の生温かい空気が心地良い。


前に出る自分。


アタシ。ヤワラだもん。


アタシ。

ヤワラだもん。

投稿者 hospital : 2003年09月16日 10:57