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2004年01月08日

ストーブ

不幸のどん底にいる人が部屋の中でそれのスイッチを押すと何故だか幸せな気持ちになれるという、形は直方体でくすんだオレンジ色をした、そのぼってりとした見た目粘土の塊みたいな物体は、部屋の中に並べられているほかの品物とは一切無関係のようにつっけんどんな佇まいで、父親と弟と3人で住む私の家の私の部屋に置かれた。

それを運び入れる時、家族は怪訝そうな顔でこちらを見ていたが、平生必要な時以外には殆ど会話を交わさない我々の生活習慣に従って、すこし不自然な形で直方体の上面にぼつんとスイッチを突き出させているそれについて、何も尋ねてはこなかった。見た目にはひどく重そうなナリをしているが、抱えてみると案外軽いその物体は結局家の者の興味を惹くまでには至らなかったらしい。
1ヶ月前に勤め先で殆ど会話を交わした事もない丸茂という男が、残業の途中に突然私のところへきて、これの話を切り出した。彼は私に自分と同じにおいを嗅ぎ取ったのかもしれない、「興味があったら」と言って、簡単な仕様が図示された紙切れをデスクの上においていった。
大して期待をしていたわけでもないが、結局私はその紙切れに記載されてある連絡先に電話をして、それを取り寄せることにした。金額はたとえその結果が徒労に終わったとしたところでさほどの後悔ももたらさない程度だったため、部屋に運び込んだなんの包装もされていないスイッチ一つのその物体をまじまじと見つめたとてまったく私の気持ちを興奮させるようなこともなく、暫くそのままにしておいたくらいだった。
さて、スイッチを押し込むと不思議なことにそのポッチはへこんだままの状態で固定されてしまい、それから何回押しなおしても元の状態に戻ってくることはない。故障かと思い、しばらくあれこれと弄り回していたけれど、それはかっちりと嵌め込まれてしまい戻る事は結局無かった。
そのまま部屋に放置されているわけで、管理というほどのこともなく、テーブルやソファを雑巾でぬぐうついでにそれもさっと拭いてやる程度だ。幸福と言っても、さほど私の生活には変調は来たしておらずその直方体の分スペースが狭まった私の部屋は以前よりも不便だとも言える。
こんなことなら買わなければよかったと、それを捨ててしまう事もできるかもしれないが、億劫さからか私はそれをしない。そして、日増しにその不自然に軽い粘土の塊のようなそれが私の部屋に根を下ろしていく。普段は気づかないのだが、ふとポッチが押されたままの状態のそれの存在に気づくこともあるが、そんな時でも私はそれを捨ててしまおうと思い立つことがないのは、不思議と言えば不思議である。
ストーブを例にとってみれば、灯油を入れてそれに火を点すことによって、それは暖気を部屋に充満させる役割を果たす。部屋の中にいる者は、それによって寒さをしのぐことができるわけだ。ひょっとしたら、このくすんだオレンジ色の物体は幸福を部屋に充満させる役割を帯びて私の部屋に届けられたのかもしれない。スイッチは押されたままで、今この時にも幸せは排出されているのだろうが、果たしてストーブにおける灯油にあたるものを補給しなくてもよいものだろうか、私には確信がもてない。
とりあえず現時点では幸福である自覚はまったく起きることがないが、たしかにこれを部屋に取り入れようとした当初の私の気持ちとしては、少しばかりそんな機能を期待していたかもしれない。
しかし、当のそれは届けられた時とまったく変わるところの無いつっけんどんな居住まいをくずす事も無く私の部屋における存在感を時を経るごとに自然にしているだけで、ほんの時たま、私に気づかれる程度の役割をしか果たしていない。
果たしてこれは何なのかが、今の私には一向に分からないのである。
ただ分かりきっていることは、家族にとっても私自身にしても、未だに幸福とはなんなのかが分からないということと、今もって気持ちを刺激される事も無く日々を淡々と過ごすということだけで、私の部屋でそれはほんの僅かな私の期待をその身に背負っているのであった。

投稿者 hospital : 2004年01月08日 16:03