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2004年02月02日

実感

「全てが現実味に乏しく、実感が湧かない」
五十を過ぎた父は未だに青春真っ只中な科白を、娘である私の前で平気で言う。

「お父さんて、若い頃からずっとこうなの?」物心ついた頃から、私は子供心にもそのことに少しの違和感を感じて、ことあるごとに尋ねたものだが「気にしないの。ルールだから」とそのたびに母からよく分からない説明を受けていた。何事にも淡々と接する割り切った母と、いつまでも青臭さの抜けぬ父。見方によってはとてもお似合いの夫婦なのかもしれない。成人はしたが、未だ大人とはなんのことなのかよく分からない私でも、そのくらいの事は分かるのだ。
日曜日のことだ。久々に家族で外食に行こうということになった。車庫から緑色の父の愛車が、ぬっ、と出てくる。運転席に座る父のまなざしは真剣そのもので、これから仇をうちにいくのではないかというほどだ。「車の運転」とはどう考えても不釣合いなその眼差し。しかしいつものことなので、私は後部座席に、母が助手席に、無言で座る。
真剣な表情のままで父が突然、「これが、運転か」と言った。
父の様子がおかしい。普段から十分におかしい父だが、今日はなんだか、ことさらに妙なものを感じた。うしろから心配になって、私は両親の様子をまじまじと見詰めていたのだったが、父も母も話を交わすでもなく、淡々と前を直視し続ける。
車はなだらかに動き出した。路地は狭い住宅地を抜けて国道へと交わる。普段から会話の少ない両親だが、先ほどから微動だにせずに二人とも沈黙を続けている。交通量は日曜とあって普段よりもある。すると、「これが、レストランへの道のりか」と、父は呟いた。驚いて二人の様子を見たが、まったく変わるところの無い前方直視の姿勢を続けている。私は空恐ろしくなった。
外食といえば、私たち家族にとって行く店は一つしかない。国道沿いに店を構える「マーガリン・キッチン」というどうかと思うネーミングのイタリアンレストランだ。駐車場に車を頭から突っ込む。ゆっくりとした動作で父はサイドブレーキをキリキリキリという音を立てて引いた。音にあわせて「んんんんん・・・」と父は唸った。再びはっとして私は両親の様子をのぞいたが、二人とも微動だにしない。弾かれたように二人は車を降りて、つかつかと店の中へ入って行く。その時、ふと母の横顔を垣間見たが、瞳には普段みられない、青白い決意の光が光っていた。これから、この夫婦は一体何をしようというのだろうか。私は冷静になろうと、つとめた。
「ピザ」。決心したように、父はウェイターに告げた。私たちはピザ以外を注文したことがない。私が子供だった頃からずっとだ。母の様子を盗み見ると、「それが、ルールだから」と訴えるかのような表情で、きっと姿勢を正して椅子に座っている。「ピザ・・・ピザ・・・ピザ・・・」注意して聞いていないと聞こえないくらいの小さな声で、父は自分の注文を、口の中で繰り返していた。私はいよいよ分からなくなった。
私たちはその間中、会話を交わすことなく「外食」を終えた。ピザをかみ締める父が、たまに思い出したかのように「ぴざ・・・」と小声で呟いていたのが気になったが、とくに変わった事もなく、私たちは満腹した。「ごくり、ごくり、ごくり」とことさらに音を立てて、母がやにわにコップになみなみと注がれた水を飲みだした。どきりとして、母の方をむいたが、コップをテーブルに叩きつけるように置くと、遠い目をしたままうごかなくなってしまった。すると父は誰にともなく、
「喉を湿らせ、胃袋まで一直線に流れこむ、水」
と言った。体言止めの意味が分からなかった。その意味を母の表情から読み取ろうと思ったが、母は、「目に見えるものだけが、真実」と、目で言っているかのようだった。
私は立ちあがって、両親に帰ろうと促した。もう、何も考えたくなかったのだった。せっかくの外食だというのに、と落胆しかけたところ、突然父の腕がぬっと私のほうに伸びてきて、私の手を握り締めた。はっとして父の顔を見返すと、笑みを湛えながら「これが、幸福か」と自分自身を納得させるかのように頷いた。
私の「父のことが理解しかねる」という気持ちを伝えようと、母のほうをすがるような目で見つめたところ、「帰るわよ」と初めてまともに話をしたかと思うと、つかつかとレジのほうへ歩いていってしまった。
父のじんわりと汗がにじむ手で、しっかりと私の手を握られたまま、私は「これが、幸福なんだ」と思っていた。

投稿者 hospital : 2004年02月02日 16:12