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2004年03月03日

来世の言葉

前世なんて言葉を信じないのと同じように、俺は来世なんてものをまるで馬鹿にしていた。

仕事を終えて街灯の明かりを頼りに家路を急いでいると、ふと背後で不穏な気配がした。このあたりは治安がすこぶる悪く、先日も観光客の二人連れが辱められ殺された事件があった。大抵の観光客なんてものは浅はかな期待をその国に押し付けて、現地の顰蹙を買うくらいが関の山だから、その二人には悪いが「いい気味だ」と思ったくらいで同情などという気持ちは一切湧かなかった。けれど、そんな事件がおきた場所で、不吉な気配に気づくというのは気持ちのいいものではない。振り返らずに急ごうとすると、ふいに後頭部をしたたかに殴りつけられる感覚、それとともに目の前は街灯の光すら届かない真っ暗闇へと変貌してしまった。
暗闇の中で思った。俺はきっと後から賊に殴りつけられたのだろう。しかし不思議と体のどこにも痛みが感じられない。それを確かめるため、手を伸ばして体のあちこちを触ってみようとしてはっとした。手はおろか、自分の体の感触というものがまったく感じられなかったのだ。ただ、ひたすらに意識だけが暗闇の中に存在しているのだった。
ひょっとすると、俺は死んだのだろうか。殴られた時に俺は即死して、するとここは死後の世界だというのか。暗闇の中であたり一面に意識を散らしてみたのだが、どこにも光らしいものはない。移動することもできずに、焦る気持ちだけが暗闇の中で熱を持っていた。ぢんぢんと、それはやけに温かいような気がして、もし体があればきっと俺は汗をかいているにちがいないと思った。
しばらくの間はそのままだった。「これが死ぬということなのか」と、凍りついたようになにも変化のない真っ暗闇の中でふと自覚した。時間がどれだけ経っているのか、考えることも面倒になるくらいに何もかもが無意味だった。
この暗闇の中に自分と同じように死んでしまった人がいて、話し相手でもしてくれればどれだけ退屈が紛らせるだろうか、とそんなことを思っていたのも最初のうちだけで、今はなにも考えずにひたすら闇を見つめる。

しばらくそのままだった。――

意識の動かし方を忘れてしまいそうになった頃、どのくらい時間が経ったろうふいに目の前に小さな点が見えた。遠い光のようにも見えるが、白い米粒のように小さな塵のようにも見えた。暫く意識を断絶していたので、考えることが面倒だったが、俺はその白い点に意識を流し始めた。

徐々に白い点は大きく明瞭になっていく。それが徐々に膨らみ、テニスボール大になったとたん、ふとまばゆいばかりの光がそこからあふれ出した。真っ白なまばゆい世界に突然放り出されたような気分だった。恐ろしかった。
光に目をやられ、その痛みに我もなく喉の奥から叫び声が無意識に飛び出した。自分の耳をつんざくほどのとても煩い叫び声だったので、その耳の痛みに一層恐ろしくなって、その叫び声はますます大きくなっていった。そして、そのまま気を失った。――

再び闇の中で俺は考えた。先ほど瞬間だったが、自分の喉、および耳の感触があった。まばゆい光を見るくらいだから、きっと目の機能も正常に戻ったのだろう。すると死んだとばかり思っていた俺は、実は死んでいなかったのだろうか。分からないことだらけで、暫くもとの闇の中で呆然とした。
どうして一瞬だけ俺は自分の体を取り戻すことができたのだろう。けれど今、俺は自由に動く事はできない。先刻、無意識に俺は叫んでいたようだったし、空間に浮いているように感じられたあのできごとは一体なんだったのか。

この闇は同じ暗闇だが、それまでの暗闇とはまったく異質に感じられた。その空間の中で色々と考えているうちに、俺は段々と恐ろしくなって泣き出した。そして、あたりが徐々に薄明るくなっていった。

はっきりとみえた。白い部屋だ。俺の真上に、若い男と老けた女の間抜け面が見て取れた。ぼけっとして、何かお互いに言葉を発しているようだった。その間抜け面がやけにおかしくて俺は噴出してしまった。
すると、二つの間抜け面がぱっとうれしそうに輝いた。どうやら、俺が彼らの間抜け面を笑ったことを喜んでいるようすだった。その二人に対して、すこしだけ罪悪感があった。次の瞬間にふと俺の体は浮き上がり、若い女の胸に抱かれた。

全てを悟った瞬間に、心地よく俺の意識は薄れていった。

投稿者 hospital : 2004年03月03日 16:19