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2004年03月08日

眼鏡

本当の笑顔か、偽物の笑顔かを見分ける眼鏡を貰った。
かけるとたちまちにわかるのだ。例え家族との団欒のひと時にとり交わされる笑顔でも、むごたらしいほどに、真偽が判別されてしまう。
かけてみて分かったことは、世の中の笑顔はその殆どが偽物だということだった。わかりきっていたことだが、これほど偽物の笑顔だらけだと、私も気落ちしてしまった。本当の笑顔をみせる人などいないことが分かっただけなのだ。


絶望しながらも私はなんとなくその眼鏡をかけつづけた。心のどこかで「本当の笑顔」を求めていたのかもしれない。けれど、その眼鏡を身につけていればいるだけ、世の中の人たちのことが信じられなくなるだけで、私の願いはかなえられない。
よく子供の笑顔は本物のように言われるけれど、実際子供とて大人の気持ちをひこうとして笑うのであって、未だに子供からさえ本物をみたことはない。
笑顔というのは、相手を警戒させないようにしたり、媚を売ったり。雰囲気を和ませようとする時に、無意識だが故意的にその人の表情を縁取るのだろう。
笑顔はほとんど道具だった。本物の笑顔なんてないのではないかと思うくらいに人間の道具になりさがっていた。
そんなふうにして、暮らしていた。数ヶ月くらい、偽物の笑顔に囲まれながら。

「暗くなったね」
よく言われるようになった。偽物の笑顔がどれだけ醜いかが身にしみて分かっていたので、私は笑わなくなったのだ。
あんな醜い顔をするくらいなら、暗くなったと人から嫌われ避けられてもいいと思った。眼鏡をかけるようになってからますますとっつきにくい人間になった私を、周りの人たちは偽物の笑顔で元気付けた。本当に私を元気付けたい気持ちからの笑顔ではない。私はますます自分ひとりだけの殻に閉じこもるようになった。

だんだん、周りの人たちは私を避けるようになった。
もともと人付き合いのよいほうではなかったので、避けられても構わないと思った。こうやって頑なに本当の笑顔を求めることが、自分の幸せを逃がしていることは分かるものの、私はますますいこじになっていく。自分の頑固さを恨んだ。

これではいよいよ精神病にかかると心配になった頃、ふとある視線を感じるようになった。

私の勤める会社でたまに顔をあわせるだけの、別の部署の男性の視線だった。廊下を歩いたり、昼休み外に出たりするたびに、その視線は感じられた。
ひょっとすると私に好意をもっているのかもしれない、そう思うと悪くなかった。
それから、彼の視線をなんとなく感じながらしばらく暮らしていた。眼鏡をかけ、しかも前より暗くなってしまった頑固な私に興味をもつような男もめずらしいものだと思ったが、いつもその視線は私に感じられた。
やがて、その空気のように優しく私を包むその人の視線が少しずつ大切に感じられるようになった。
硬く閉ざした私の心を優しく和らげてくれるようで、とてもうれしかった。視線の元の彼の笑顔が、たとえ偽物だとしても、それはそれでしかたがないと思った。
私は決して自分から、その視線の方をみることはしなかった。偽物の笑顔を見たくなかったからだ。

「あの・・・」

俯いて廊下を歩いていると、突然背後から話しかけられた。昼休みのことだ。
例の視線を感じながら歩いていた時のことだったので、とっさにその声の主が私をいつも見ている男性のものだと直感した。
きっと決心して、彼は私に声をかけたのだろう。そこには偽物の笑顔を湛えた彼の顔があるのかもしれない。


私は、何気ない様子で、眼鏡を外した。
振り向いて「はい」と答えた。

そこには眼鏡をかけていないから本物かどうか分からないけれど、素敵な屈託のない彼の笑顔が溢れていた。
眼鏡は捨ててしまおうと思った。

投稿者 hospital : 2004年03月08日 16:21