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2004年06月23日

カンボジア

その日、普段どおりに事務処理をこなしているところへ直属の上司である坂口部長から唐突に、「君、来週カンボジアへ飛んでくれんかね」と言い渡された。目を書類に落としたままの状態でそんなことを言われたので、驚いて顔を上げた。そこには普段どおりの仏頂面があった。こんな発言日常茶飯事だと言わぬばかりのなんらの躊躇無い顔である。「はっ」と、その顔に釣り込まれて返事をしてしまったが、すぐ後に事の重大さに気づき「一体どうゆうことでしょうか?」と尋ね返した。「どうゆうって、そうゆうことだろ、ふん」と、僕の人生をどれだけ左右するものか、部長はその発言の重大さに気づいていないのだろうか。「ということで、頼むぞ」と言うや、踵を返してしまった。周りの同僚達は僕と同じく一瞬のできごとに唖然としている。

「だってお前、うちは海外に支社ないだろ?」
「おいおい、大変なことになったな」


他人事だからいくらでもいえる、僕を同情してくれるように何人かは声をかけてくれたが、当の僕はと言うと茫然自失してしまっていて、それらに曖昧に応えることしかできなかった。
昼休みを経て、少しだけ冷静さを取り戻すことができた僕は、すぐに部長の執務室へと向かった。そもそもうちは海外に拠点をおいていない。そればかりか、就職する時に「うちの自慢は転勤がないことだ」というところに惹かれて僕は入っているのだ。こんなデタラメはないだろう、と気持ちをつよくもって部長の部屋にアポもとらずに乗り込んだのだ。

「部長、カンボジアって、いったいどうゆうことですかっ」

突然の闖入者に部長は驚いた表情もみせずに、「俺の・・・故郷だからさ・・・」と僕の顔を見返した。答えになっていないあまりに唐突な発言なので、次の言葉がでないでいると、「君に・・・一度・・・、俺の故郷を見せたかったんだよ」と諭すような口調で続けた。
なんとなくこちらの気勢がそがれてしまって、すすめられてもいないのに僕はすとんと傍にあるソファに腰をかけた。部長は事務机からやおら立ち上がると、窓辺にたってブラインドを開けた。煙草に火をつけゆっくりと煙を吸い込んでから何かを思いたつようにして吐き出し、語りだした。

「俺の故郷はカンボジアの南部にある都市、プノンペンだった。物心ついたころ、時代はまさに日本が敗戦しようとしていた。物資は引き上げられ、現地での日本人の立場はいよいよ危険なものに成り果てようとしていた。その頃の俺には大切な恋人がいた。冗談みたいな話だが、彼女の名前は『スーザン』だった。スーダン生まれのスーザン。笑ったよ、思い切り笑ったっけな。俺の人生で数少ない大笑いの経験だが、これは本当の話で、実はスーザンには双子の姉がいて、その頃秘密の地下室でさるぐつわを・・・」
「ちょっと待ってください」
「なんだ」
「僕の転勤と、その話、どうゆう関連があるっていうんですか?」
「・・・まあ、聞け。丁度その頃だ」
「・・・・」
「日本はアメリカに敗れようとしていた。俺がその頃大変世話になった人に、カイワレダイコンさんという初老のトラック野郎がいたんだ。ああ、堅物だったよ・・・。自分の意見をてこでも曲げようとしない人でね。あの性格には俺も相当手を焼いたさ。その日も議論をしていた。君も知っての通り、俺は根っからのブルマー派でね」
「部長、ブルマーの話なんて聞きたくありません」
「君もせっかちさんだな」
「どうして僕がカンボジアに転勤になるんですかっ。納得の行く説明をお願いします」
「時代はまさに風雲急を告げるといった状況でね。俺はそれがいいことなのかという判断をつけないままに、頭髪をちょんまげに結ったよ。今考えると自分の浅はかさに呆れるくらいだが、その頃の俺は本気でね。まあ、その時に藤島部屋にスカウトされたんだが、あの時の藤島親方といったら傑作だったよ。俺のことを『寺尾以来の逸材だ』っていって絶対離そうとしなかったんだからね。その熱意には正直辟易したが、日本ならいざ知らずカンボジアだろ?そんな話は聞けないって、それ以来藤島親方の携帯番号は電話帳から削除してしまったんだがね。今から考えると、あの時親方の言うとおり角界入りしておけばよかったかな、なんて思う事もあるよ」
「相撲と僕の転勤とどうゆうつながりがあるっていうんですかっ、すこし真剣に・・・」
「そして・・・、例の殺人事件だよ」
「え」
「そう、結局ブルマーかトレパンでもめにもめてね。あんなに夢中に議論したことなんて後にも先にもあれっきりだったんじゃないかな。君のような若い人からすればものすごく馬鹿げた話だと思うかもしれないけれど、その頃の俺達にとってはその日一日食いつなぐことと同じくらい重要なことだったんだ。ブルマーのことさ・・・。話は変わるが、君の転勤話。断りたかったら断ってくれてもいいんだよ。これは本当に俺の個人的な話だから君に無理をいって・・・」
「断らせていただきます」

「そうか・・・」

窓の向こうを眺めながら、部長は寂しそうな後姿をこちらに見せた。そしてそれきり言葉を口にすることは無かった。

僕は一時の気の昂ぶりで部長の申し出を断ってしまったが、あの日以来部長の寂しそうな後姿は僕の頭から消える事はない。オフィスで何度か坂口部長とは顔をあわせるが、部長からカンボジア転勤についてそれ以後話しがだされることはなかった。あの話は一瞬のうちに出て一瞬にして消えてしまったということなのだろうか。なんとなく寂しいような気持ちがした。
普段どおりの淡々とした日々が続く。その連続の中で、あの話はやけに鮮明な存在感を持って僕の怠惰な毎日の中に鈍く光り続けている。人は長く生きると他人には理解されない多くのものを胸のうちに抱え込むということなのか。今では部長に申し訳なかったと思うようになっている。いつか機会があれば、僕から、カンボジアの話を持ちかけてみたいと思っている。そのことがいいことなのか、僕には分からないのだが。

投稿者 hospital : 2004年06月23日 16:42