« 最後のディスクレビュー17 | メイン | 山奥の機械の話 »

2004年06月23日

床の目

マンションの廊下なんていちいち目を凝らしてみないものだけど、その日はたまたまほどけた靴ヒモをなおすのにしゃがんだので僕はそれに気づくことができた。コンクリートがくすんだ床に、コインが上下から潰されたような形をした「穴」が穿たれているのをふと目の端でとらえて、そのまま靴紐に集中しようとしたのだが、ぞっとするような映像がやっとのことで理解された。

そのコイン大に穿たれていた穴の奥から明らかに「目」がこちらがわを覗いていたのだから。ぞっとするような話だった。誰にも見届けられないような廊下の床に目があるのだ。くすんだ向こう側に鮮やかに明らかな生の目がある。果たして「これ」に気づいた者は僕のほかにいるのだろうか。靴紐に伸びかけた手をふと止めて、僕はその目にじっと視線を集中した。
明らかに、人の目だ。目は口ほどに語るという言葉どおり、その目は何かしらの意識を湛えて、生命の感覚をまといながらこちらを凝視している。この目に僕はうつっているのだろうか。きっとこの目には廊下の天井を背景にして、唐突なことに狼狽しているしゃがんだ僕がうつっているのだろう。瞬きをすることもなく、ただただこちらを見つめているのだ。これに気づいた人はきっと僕だけなのだろう、そうだ僕としたところで偶然にこれに気づいたのだから、他の人が気づくはずもないだろう。薄気味悪くなって、僕は「それ」から目をそらして逃げるように駆け出した。
大学の講義に出席してる最中、頭にはずっとその目のことがこびりついて離れなかった。僕の人生で初めてといっていい、なにか未知のまったく想像外のものにさらされている感覚。当然教授の言葉は聞こえるはずも無く、ひたすらしんとした教室のなかで考え続ける。目のこと。あの廊下の床の厚みはとうてい人が入る部分はないだろう。例えあったとしても、そこに人が埋まっている必然性はなく、埋まっていたとしても、そんな人間が生存し続ける可能性はありえない。建築工事の最中になにかの事故で作業員が挟み込まれてしまったなんてことはありえないだろうか。どこかに入り口があって、あの部分に丁度人一人が入れる分だけのスペースがあって、なにか「あの場所で目を凝らす」必要性なり意味があるのだろうか。様々に空想される可能性の一つ一つに僕は首をふり、それらを打ち消していった。あの場所に目があるということが考えれば考えるだけありえないことに思われていくのだ。

予定されていた講義を上の空でこなすと、僕はすぐに家路へと急いだ。日が暮れかかっている。僕の内面のせいだろう、いつもとは少し違って見えるマンションの、僕の部屋がある階の廊下部分を下から眺めてみた。そしてやはり僕が打ち消したとおり、目があったと思われる部分の床の厚みは到底人間がはまれるような空きがないことなどが改めて確かめられた。やはりあの目の存在は不可解なのだ。
恐る恐るエレベータから降りて、例の場所でふと立ち止まった。何かの目の錯覚だったのじゃないか、僕の見まちがいだったんじゃないか、そんなひそかな期待はそこでやはり打ち消されてしまった。今朝気づいた時と同様の目が、やはりきちんと意識をもってこちら側を眺めている。何を考えているのか分からない、目。
うなだれて僕はそれを見つめた。
目も、こちらがわを見つめている。
一歩、目の視線から逃れるように僕が後ずさりすると、黒目の部分が僕を追いかけるようにして動いた。横に体を移動させても結果は同じだった。この目は確実に僕を見ているのだ。いや、僕でなくても、誰かがここを通る時にはこの目はそれを見ているのかもしれない。僕以外の住人がエレベータまで移動するのを、またはこの場所を同時に数人が歩きすぎたりするのを、様々の景色の移ろいを、この目は見つめ続けているのかもしれなかった。この目が見ているだけでなく何かしらの行動に出たということは今のところ無いようだ。というよりも、目は「見る」以外にことをなすことができるはずもなく、何かこの目が行動をおこしているならマンションの住人は大騒ぎになっているはずだろう。やはり僕以外の人はこの存在に気づいていない。
深く考えても埒があきそうになく、僕は部屋に戻った。頭にはやはりあの目のことが想い出された。しばらくベッドに座って呆然と考えていたが、はっと気づいて今まで気づかなかっただけで他に壁やら天井やらに目が穿たれているんじゃないかと部屋中を眺め回した。棚や机を移動させては懸命に探し回ったけれど、取りこし苦労だったようで廊下にあった目のような穴はどこにも穿たれていない。妙な期待と裏腹に僕はほっと安堵した。誰かに打ち明ける勇気もなく、決意する事もできず、僕はその目のことについては自分だけの中にしまっておこうと思い始めるようになった。翌朝も、そして次の日も、僕はその目を視線の端にとらえるだけで、そのまま外出した。
数日経ったある日、その目の存在が殆ど異様に感じられなくなってしまうほどになったころ、外出先から戻りエレベータから降りた僕は隣の部屋の住人が丁度外出するところに出くわした。彼女は目を不自然に「目」のある床に落としていて、それから僕に気づき、きまりわるそうに「こんにちは」と挨拶をした。僕も挨拶を返したが、その時僕は自分以外にも目の存在に気づいている人がいることに思い至ったのだ。
彼女がエレベータの中に消えてしまった後、床のところまでいって久しぶりにじっくりとその目を覗き込んでみた。始めて気づいたときとまったく同様にそれはこちら側を見つめていた。何かあの時とは別のことを考えながら、その目は僕のほうをみているのかもしれなかった。

投稿者 hospital : 2004年06月23日 16:44