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2004年09月09日

キョーク

体内にある時は黄色い普通の液体が、一旦外に出て空気に触れるとたちまち粘着質の糊の様になるその物質を、人々は「キョーク」と呼んでいる。
鎖骨のくぼみあたりからにゅるりとそれらがあふれ出してきて、それをぬぐって手のひらの上に伸ばす。

ある日突然両の鎖骨の上あたりにホクロほどの大きさで目立たない穴が出来て、出来たことすら気づかないうちにそこからキョークは溢れてくる。穴の出来る時期は人によってまちまちで幼年のうち物心のついた時すでに穴の存在に気づいている人もいれば、老人になっても時には死んでしまうまでも穴ができない人もいる。どういった基準でその穴ができるのかはまったく知られていないことだし、そもそも誰もそんなことを話題にしようとは思わない。
キョークは排泄物の一種かとも考えられる。いつどんな時になにをするとキョークが溢れてくるという規則性のようなものはなく、不意に溢れだして「キョーク溢れてるよ」と他人に何気なく指摘されるほどに自覚が無い。かといって他の排泄物のように異臭をたてたり他人に不快な思いをさせたりするのでないから、「あ、ほんとだ」とそれを指で拭っては掌に伸ばしたりして、キョークが溢れたことについてはその後一切を忘れてしまう。
あまりに自然なもののため、その糊状の物質をなにかに利用するということは考えられない。そんなことは他の生理現象と等しく考えるだけ無駄だからだ。そして、個体差はあるから、キョークの出る量や頻度も人によってまちまちである。日に何度もキョークがあふれ出して困っている人もいれば、忘れた頃にキョークがたまのように鎖骨のあたりに現れていて、はっと気づかされる人もいる。

年に一人か二人だろうか。キョークが狂ったようにあふれ出し、そのまま死んでしまうといった事例がある。
彼らは始め、溢れ出す多量のキョークに戸惑う。にゅるりにゅるりと放っておけば山のようにキョークが満ちる。微量なら掌の上に伸ばして乾かしてしまうなどのような手段が有効だが、多量になるとそれらは鎖骨の上に山のように堆積して、それに当惑した彼は机の上など適当な場所にそれらを拭って集めだす。
出てくる量が半端ではない。集めても集めても穴から溢れ出し、その処置に困り果ててしまう。机がキョークで一杯になったあたりで、当人は狂わんばかりの混乱に陥る。やがてキョークの氾濫の中でその人は息絶えてしまう。

キョークの実態についてなにも明かされていない。どのようないきさつでいかなる化学反応がこの物質を生成するのか。そもそも物理学的に、微量のキョークについては説明がつくかもしれないが、如上の事例は到底説明がつかない。
いついかなる時にキョークが多量に溢れ出し人を死に至らしめるのか分からないが、どの事例にも一様に報告されるのは、キョークが溢れて死んでしまうのは、必ず当人が一人で孤独にしている時だということだ。そしてそれらの事件を検めてみると一つの共通点が浮かびだす。
どういう理由からなのか、最初の内一つところに集められているのがそのうちに壁や什器など身の回りにあるもの全てにキョークをこすり付けるという行動に出た跡が、それら事例の全てに認められる。
多量のキョークを持て余し、集めて置くスペースがなくなってくると恐怖からか彼らは一様にそれらをあちこちに散らかすのだ。死後その現場を検分するとそれら形跡がありありと見て取れる。
キョークをばら撒くのもその後暫くのようで、今度はあふれ出してしまったキョークを自分の体内に取り込もうとする。焦燥の中、自分の皮膚に一所懸命塗布したり或いは口にいれて食べてしまうケースもあるのだ。検証するに、その時当人が感じていた焦りというものは相当なものだったにちがいない。
誰もいない部屋の中で自分の体からあふれ出すキョークに脅えるというのは一体いかなる心理状態なのだろう。

私の場合キョークが鎖骨に現れるのは三日に一度くらいだ。キョークが制御を失って溢れはじめ、死に至るという現象はきっと誰の心の中にも少なからず忌むべきものとして占められているはずである。いつ自分のキョークが暴走を始めるのか。そのことについて普段は殆ど考えないにしても、それは完全に忘れる事はできないものだろう。
人々は普段の何気ない暮らしの中で、例えば車の中だったり街角や建物の中で、映画館の椅子や会議室のテーブル、道端の電柱や塀、それら有象無象に自分から溢れ出たキョークを擦りつけ伸ばしたりしている。手のひらの上で伸ばすのと同じことだ。それらは何の気なしに擦り付けられてそのことはすぐ後には忘れ去られてしまう。キョークも微量だから、いつの間にか消え去ってしまう。
外出先から帰宅すれば自分が今日どこに自分のキョークを残してきたか、そんなことはありふれた日常の中にうずもれて忘れ去られてしまう。人生の中で自分がどれだけのキョークを散らかしたのだろう、そんなことは知る由もない。

キョークがあふれ出して死んでしまう現象。想像するに、彼らはその時溢れ出るキョークをもてあまし、自分がこれまでに無駄に散らかしてきたキョークに思いを馳せ、少しでもそれらを取り戻したいと焦るのではないか。食べてしまったり、自分の皮膚に塗布するという行動はそうした心理から起きる現象なのではないだろうか。
バケツにいっぱいのキョークを頭の上に載せて、それらがこぼれてしまわないように注意をしながら歩き続けるような、まるでそれらのキョークを失ってしまう事が自分の存在を否定してしまうような恐怖をいつも抱えながら、私達は生きているような気がする。
そして普段人々は僅かながらもキョークを失いながら、かすかな恐怖を抱きつつ、生きているのだ。たまに穴から溢れ出るキョークを指の先にとらえ、それを舌の上に載せると形容しがたい味を感じ、その後すぐに心をくすぐるとらえどころの無い感覚に陥るのも故あることのようにも思われる。

投稿者 hospital : 2004年09月09日 19:21