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2004年10月19日

白い黒猫

私の家の黒猫は、黒猫のくせに全身の毛が真っ白であるので、まるで白猫だ。
それを私はたいへん不憫に思い、いつかその毛が立派な黒色になることを願って、猫の背や腹や太ももをていねいにていねい撫でてやる。私にていねいにていねいに撫でられた黒猫は、嬉しそうに、にゃあにゃあと鳴く。しかし、その鳴き声もまた黒猫のそれではなく、まるで白猫が鳴くかのごとき声色であるので、私はこの猫が心から可哀想に思えて目頭が熱くなる。そんな私の気持ちを察してか、猫は、少しも落ち込んだり悩んだりする姿を私にみせることはなく、いつだって気丈に振舞う。いじらしくも前向きな猫の様子をみていると、いよいよ私は両の目から溢れ出す涙を止めることができなくなる。

ある日、私は猫をつれて獣医を訪ねる。
獣医は、白い毛をもつこの奇怪な黒猫を目の当たりにしたところで、別段驚いた表情をみせるでなく、平静沈着、微笑みさえ浮かべて私と猫を迎える。
「どうしましたか」獣医は優しく尋ねる。
「ごらんのとおり、黒猫なのに白いのでございます。生まれたときからこうなのでございます」そう言って私は診察台に座る猫のその真白い背に触れる。その拍子に猫はまた白猫の声でにゃあと鳴く。
「この通り、声まで白猫のようなのです」
獣医は黙って頷く。
「先生、どうにかこやつに黒い毛を生やすべく薬や治療法はございませんかね」
獣医は深く考え込む。
「お願いします」
私は頭をたれた姿勢で獣医の答えを待つ。
長い沈黙が続く。
と、獣医は大変言いにくいといった調子で
「私にはどうすることもできませんね」と答える。
「それじゃあ、他にどこか良い動物病院を紹介しては頂けませんかね」
獣医は私の顔をまじまじとみつめる。
「いやあ、ちょっと思いつきませんね」獣医は申し訳なさそうにいう。それから、「猫よりも、まずはあなたが病院にいくことをおすすめしますがね」と、付け加える。
私は自分の禿げ上がった頭にできた吹き出物がそれほどまでに目立つかと思い赤面する。
「そんなに私の頭はひどいですかね」
「ひどいですとも。こんなにひどい頭の人にお目にかかったのははじめてです」

帰り道、私はいきつけの佐々木薬局に立ち寄る。よく知った店主の佐々木さんがにこやかに私を迎え入れる。
「やあ、頭の吹き出物がね、どうにもひどいようで、何か良い薬はないかね」
「ちょいとお待ちくださいよ」
佐々木さんは薬棚から軟膏取出し、私に手渡す。
「ところでね、つかぬことを伺うがね、うちの猫をどうにか黒くすることはできんかね」
「できますとも。ブリーチしたらいいことです」
「ほう、ブリーチとな。そりゃいったい何かね」
「染髪のことです」
やあ、なるほど、そりゃ気がつかなんだ。なんとも簡単なことではあるまいか。嫁の達子さんも最近増えたと嘆く白髪をもせっせと黒く髪を染めておるし、孫の章雄も毛唐のごとく髪を茶色に染めておる。東京で暮らす次男の孝明の髪はありゃカツラだし、隣の吉田さんとこの娘さんは整形美容で目を二重にしたと近所で噂になっておる。それに、私の歯だって全部入れ歯じゃないか。たとえそれがニセモノ、ペテン行為であるとしても、快適に暮らすにはそれも必要だ。それに、人間だけが毛を持つわけでなし、同じく毛を持つ猫がその毛を染めていけない道理がどこにあるものか。いわんや、白い毛を持つ不幸な黒猫をや。
「じゃあ、そのブリーチというのをみつくろってくれんかね」
「承知いたしやした」

喜び勇んで薬局をあとにする。足取りも軽く、自然と口から即興の唄がこぼれる。

おお、白い黒猫よ、死んだ家内が残した、うんと使い込まれたフライパン鍋のごとく、
おお、白い黒猫よ、敵軍に追われ、命からがら逃げ回った、ラバウルのジャングルを覆う、闇夜のごとく、
おお、白い黒猫よ、その背におぶられてみた、椿油で光る、若き日の母の黒髪のごとく、
真黒く染まれよ、タンゴを踊れよ、軒下の闇に溶け、黄色く光るまなこだけを我にみせよ

家について早速風呂場で準備をはじめる。
助けに孫の章雄を呼びつける。
染髪剤の箱をみた章雄がいう。
「おじいちゃん、いったいおじいちゃんの頭のどこに染めるべき髪があるのさ」
「いんや、私じゃないのだよ。こやつの毛を黒く染めるのだ」私は猫を指差す。
「えー、そりゃまずいんじゃないかな。僕には出来ないよ。猫がかわいそうじゃないか」章雄がどうにも頼りない声で言う。
「なあに、偽でも黒くなれば、明日からきちんと黒い毛をもった黒猫として堂々と生きられる。もう、黒猫のくせに毛が白いなどと、後ろ指さされることもなくなるんだ」
「おじいちゃん、ちょっとそりゃ猫にきいてみる必要があるんじゃないかな」
「なにいっておる。みろ、この嬉しそうな猫の顔を」
風呂蓋の上に行儀良く座る愛くるしい顔の猫。私をみて、うにゃんと鳴く。
「どれ、まずはじめに、毛を水に濡らせないとな」
蛇口をひねる。シャワー口から水が勢い良く噴出す。
急なことに驚いた猫は風呂場の隅に逃げる。
「これこれ、怖がるでない。すぐに済むさ」
逃げる猫を無理矢理両手で抱えあげる。
「水が怖いとは、まったく猫らしい猫だわい」
「ちょっと、おじいちゃん、嫌がってるじゃない。やめなよ」
私に両脇を抱えられたまま、猫は暴れる。
爪をたて、私の腕をひっ掻く。
「あ痛っ」
あまりの痛さに、私は猫を抱いた手をはなす。
猫は開け放たれたままの風呂場の窓から、一目散に外へと逃げていく。

その夜、家族のものにひどく叱られる。「猫も猫なりに考えがあるはずだ。余計な世話をやくな」というのが皆の意見。まったくそのとおりだ。あいつの都合など、とんと訊かず、まったく私は自分勝手のおせっかいの大馬鹿者だ。白くてもいいじゃないか。あいつがそれでいいならいいじゃないか。何より大切なのは五体満足でいることだ。

猫は外に出たきり帰ってこない。三日三晩、私は床にふして泣き暮らす。
猫よ、すまなんだ。無理強いをして、まことにすまなんだ。早く私の元へ帰ってきておくれ。帰ってきて、いつものごとく布団にもぐりこみ、私の冷えた足を温めておくれ。

猫がいなくなって四日目の午後。私は縁側でひとり寂しく茶をすする。
ふいに、にゃあにゃあと聞き慣れた白猫の声を聞く。
「おお、帰ってきたか、猫よ、どこだ、どこにいるのだ」
軒下から這い出てきた猫が、ぴょんと跳ね、縁側に登る。ひょこひょこと私の元へ寄ってくる。
私の膝に額をぶつけてじゃれる、その猫の変わり様に、私は驚きの声をあげる。
「なんだおまえ、黒猫はやめて、白猫になったのか」
すると猫のやつ、そうだとも、と言いたげに、胸を張る仕草で私に向かってにゃあと鳴く。
なるほど、無理に毛を黒くするより、毛が白けりゃ黒猫をやめて白猫になるが簡単なことだわい。
真白い毛を持ち白猫の声で鳴くまことに堂々と白猫然たる白猫が私の目の前にいる。
ほんとに、おまえは賢いやつじゃ。私は猫の頭を撫でてやる。にゃんと白猫の声で白猫が鳴く。
ういやつだ、おまえはまこと、ういやつだ。猫を抱き上げ頬擦りをする。
美しき純白の、ピアノ線のごとくピンとはった、その威風堂々たるヒゲのせいで、頬に、ほんのりと、痒みを覚える。

投稿者 hospital : 2004年10月19日 14:45