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2005年01月30日

ポケットの中の明日

ある朝、通勤ラッシュの電車内で、昔の恋人をみつける。
革靴を履いてスーツを着て、ばっちり化粧をきめた昔の恋人。
スーツの上に着た水色のコートは、むかし僕が買ってあげたもの。
ゆっくり背後に近づいて、僕は、彼女の、
その水色のコートの、ポケットの中へと忍び込む。

彼女のポケットの中は、僕の他に、何もはいっていない。
彼女のポケットの中は暖かくていいにおいがする。
電車の心地よい揺れも手伝って、
僕はいつしか眠りにつく。

携帯電話のバイブレーションで目を覚ます。
革ジャンのポケットから、あわてて取り出し電話に出る。
声をひそめて僕は話す。
「もしもし」
「おい、遅刻だぞ。それともまた休む気か?」アルバイト先の社員の声。
「いまどこにいるんだ」
「うちです。うちで寝てます。今日はいけません。ごめんなさい」
そのとき車内アナウンス。次は渋谷~。渋谷~。
気まずい沈黙。電話の向こうで大きな溜息。
「もういいよ。もういい。今日はもう来なくていいよ」
「はい。すいません」
「それと、明日も明後日も。もう二度とこなくていいからね」
電話が切れる。
僕は仕事を失う。

それでまた僕は眠りにつく。
嫌なことがあった日は、なぜかよく眠れてしまう。

目を覚ます。ポケットから顔を出す。
あたりは真っ暗。
もしかして、もう夜?
そうじゃない。
ポケットの外へ手を伸ばすと、冷たい金属にぶつかる。
たぶんここはロッカーの中。彼女の会社の、ロッカーの中。
戸の隙間からほんの少し射す光の中で、
ほこりが宙を舞っているのが見える。

両足をポケットの外へぶらんと出して、ぼんやり物思いに耽る。
頭の中にとりとめもなく浮かんでくるのは、
滞納している家賃のこと、
いつまでも終わらない書きかけの小説のこと、
彼女と別れたあの日のこと。

突然、ロッカーの戸が開く。
あわてて足をポケットの中にひっこめる。
僕を入れた水色のコートはゆっくり持ち上がって、
再び彼女の体に覆いかぶさる。
まわりに何人かの女の子たちの声がする。
今日のランチはどこへ行こうかと話し合っている。
もうそんな時間か、と僕は思う。

女の子たちを連れ立って、彼女はどこかのレストランにいる。
女の子たちはよくしゃべる。
注文をして、今日の日替わりランチを食べて、
食後のコーヒーを飲み終えるまで、終始にぎやかにおしゃべりをする。
昨日のドラマの話から始まって、会社の誰かの悪口になって、
それから、恋の悩み相談へと行き着く。
それぞれが、現在の、あるいは、過去の体験をもとに、
悩みの主へと助言を与える。
それで僕は、彼女が僕のことを話すのではないかと、
すこし身構えてみるのだけれど、人の話しに相槌をうつだけで、
ついぞ彼女の口からは、僕のことなど出やしない。

会社に戻った彼女。
僕を入れた水色のコートを脱いで、
専用のロッカーに仕舞い込もうとする。
そのとき、携帯電話の短く鳴る音。
僕のではない、携帯電話の鳴る色。

彼女の動作がぴたりと止まる。
ロッカーに入りかけのコートは宙ぶらりん。

開いたポケットの口から彼女がみえる。
右手に持った携帯電話をみつめて、
ほんのすこし笑みを浮かべた彼女の横顔がみえる。
きっと誰かからの愉快なメールをみているのだろう。
その一瞬の隙を狙って、僕はコートのポケットを抜け出し、
そのまま彼女が着ているスーツのポケットへと潜り込む。

彼女のスーツのポケットの中には、
僕のほかに、ハンカチがひとつ入っている。
ポケットの中は真っ暗なので、
それが何色のハンカチなのかはわからない。
でもきっと、水色じゃないかと僕は思う。
彼女は水色が好きなんだ。
下着から何から、身につけるものはなんだって、
彼女は水色を選ぶ。

ハンカチにぎゅっと顔をうずめる。
忘れかけていた彼女が使う洗剤の匂い。
そんなハンカチを枕代わりに、僕はごろりと寝転んで、
外の音に耳をすます。

仕事中の彼女は、かっこいい話し方をする。
僕の知らない話し方をする。
上司との会話の中に、僕の知らないかっこいい言葉がいくつか。
キーボードを叩く音、舌打ちをする音、鼻をすする音だって、
なんだかかっこよく聞こえてしまう。
会社で働く全ての人がそうなのか。
僕にはよくわからない。
ただ、時折たてる無邪気な笑い声は、僕の知ってる彼女のもの。
上司のそれほど面白くもない冗談にも、彼女は僕の知ってる笑い方で笑う。

仕事が終わる。
ポケットの中の僕をつれて、彼女は会社を出る。
街の喧騒の中を歩く。
その足取りはなんとなく浮かれ調子で、
ポケットの中で揺れる僕まで幸せな気分になる。

ジャズのかかる場所で、彼女は腰を落ち着ける。
なんにしましょう、と誰かが尋ねる。
カンパリオレンジ、と彼女は答える。
僕はそこがバーであることを知る。

しばらくして、「おまたせ」と男の声がする。
男はマティーニを注文して、オリーヴをいれなでくれと頼む。
オリーヴの抜きのマティーニを頼む男がこの世に存在することに、僕は驚く。
そして、その声の主が、さきほどの上司のものであること気づく。

バーでのふたりは、会社とは違う話し方で話す。
僕の知ってる話し方で彼女は話す。

店をあとにしたふたりは、喧騒を離れ、どこか静かな場所を歩く。
そして、とある建物の中へと入る。

彼女のコートのポケットの中で、
僕は、エレベーターを上る、あのかんじを感じる。
それから、絨毯を敷き詰めた廊下の、あの独特のにおいを嗅ぐ。
静かに、インストゥルメンタルミュージックが流れている。
ドアを開ける鍵の音が聞こえる。

「先にシャワーを浴びるわね」
と、彼女が言うのを聞く。
ポケットの中に、にゅっと彼女の細い指が入ってくる。
三つの指が、僕の頭の下にあるハンカチをつまみ上げる。
その拍子に、ポケットの中の僕は、
無様なかたちにひっくり返る。

なんとか体勢をなおした僕の脇に、再びハンカチが押し込められる。
ハンカチの中に、何か硬い物体がふたつ入っている。
ハンカチの折り目に手を差し込んで、僕はそれらをひっぱり出そうとする。
そのとき、外からぐっと強い圧迫。

窒息しそうになる。
繊維の擦れあう音がする。
ポケットのむこうに、男のすこしたるんだ肉体があるのがわかる。
「一緒にシャワーを浴びよう」
と、男が言うと、僕を入れた彼女のスーツが、すとんと床に落ち、
尻餅をついた僕の上に、次々と、服や下着が積み上げられていくのを感じる。

扉の閉まる音。
シャワーの音。
その音に混じる男と彼女の声。

僕はポケットからするりと抜け出して、久しぶりに外の空気を吸う。
簡単なストレッチで体を伸ばす。
目の前に、洗面台と備え付けの大きな鏡がある。
鏡に映る自分をしばしみつめる。
寝癖のついた頭で、汚いジーンズをはいて、汚いトレーナーを着て、
汚い革のジャンパーを着た自分をしばしみつめる
すりガラスの向こうに、ふたつの裸体がぼやけてみえる。

床に落ちた彼女のスーツを拾い上げる。
さっきまで僕がいたポケットの中へ手をつっこむ。
ハンカチをつまみ出す。
その色が、水色ではないことを知る。
ハンカチを広げる。
ふたつのイヤリングが手のひらに転がる。
足元に、黒色のパンティとブラジャーが転がっている。

シャワーの音が止まる。
あわてた僕は、彼女のハンカチとイヤリングを持ったまま、隣の部屋へと移動する。

そこは、とあるホテルの一室。
大きなベッドの上にふたつの枕が並んでいる。
壁には、男のカーキ色のコートと彼女の水色のコートが並んでいる。
僕は、男の、カーキ色のコートのポケットへと潜り込む。

男のポケットの中はなんだか嫌なにおいがする。
底にはすこし煙草の葉がたまっている。
僕は一緒に持ってきた彼女のハンカチを広げて、シーツの代わりに敷き詰める。
邪魔なイヤリングは足元へ追いやって、腕を頭の後ろで組んで横になる。

部屋に男と彼女がやって来る。
ふたりが何か話しているのが聞こえる。
愛してる、と二人が囁きあうのが聞こえる。
やがて、彼女の、あのときの、あの声だけが聞こえてくる。

「じゃあ、先に出るから」と男は言って、
僕が入ったカーキ色のコートを身につける。
そして再び、あの強い圧迫感。
「じゃあ、またね」と男がささやく。
「うん。バイバイ」と彼女の返事。
ポケットのむこうの彼女の温もりに、
僕も小さく、「バイバイ」とつぶやく。

男のコートの中で、僕は今日三回目の惰眠をむさぼる。
嫌なことがあった日は、本当によく眠れる。

やがて僕は、ふたつの声に目を覚ます。
「おかえり」と、女の人の声。
もうひとつ、「おかえり」と、子供の声。
僕を入れたカーキ色のコートは、男の体をはなれ、女の人の手に渡る。
ハンガーが通され、どこかに吊るされるのを感じる。

人の気配があたりから消える。
僕はポケットから顔だけ出して、大きく外の空気を吸い込む。
クリームシチューの美味しそうなにおいが鼻をつく。
そこは、どこかのアパートの一室。
むこうの部屋で、男と、女と、子供が食卓を囲んでいるのが見える。
あわててポケットの中に頭をひっこめる。
三人の話す声が聞こえてくる。

女の声。
「ユウくん、ニンジン残しちゃだめよ」
子供の声。
「いやだ、ニンジン大っ嫌い」
もう一度女の声。
「好き嫌いはいけませんよ」
最後に男の声。
「まあいいじゃないか、ニンジンくらい」

そうだとも。
まあいいじゃないか。
ニンジンくらい食べられなくたって。
部下と不倫をしてみたって。
まあいいじゃないか。

家族の団欒が続く。
子供は今日幼稚園で起きた話を一所懸命、男にする。
男は笑ったり、子供を褒めたり、偉そうなことを言ったりする。
それからみんなでテレビをみたり、男はビールをくれと女に言ったり、
女は男に近所の田中さんの話をしたりする。
そして、女が、「お風呂いれてあるわよ」と言うと、
「ユウスケ、パパと一緒にお風呂に入ろう」と男が言う。
「はーい」と子供が元気よく答える。


ポケットから顔を出す。
男と子供は風呂場に行き、
女は僕に背を向けて、食器を洗っている。

あたりを見渡す。
部屋の隅の木製のコート掛けに、
女物の赤色のダウンジャケットがかかっている。
その下には、茶色の子供用のダッフルコート。
そして、そのまた下には、胸に黄色い名札のついた、水色の幼稚園服。

なんとなく、僕は、その水色の幼稚園服のポケットに入りたいと思う。
はやくこのカーキ色のコートを抜け出して、あの水色の幼稚園服に入りたいと強く思う。
そして、そもそも、水色が好きなのは僕だったことを思い出す。

カーキ色のコートからひょいと飛び出し、フローリングの床にひらりと着地する。
水色の、幼稚園服のポケットの中へするりと潜り込む。

幼稚園服のポケットの中は、ひんやりとして気持ちがいい。
頬擦りをすると、かすかに、アイロンをかけた後の匂いがする。

男と子供が風呂から出てくる。
子供のおどけた声が聞こえて、
「ほら、ちゃんと乾かさないと風邪ひくぞ」
と、男が言うのが聞こえる。

ばたばたと子供が走る音。
「ユウくん、幼稚園に着ていく服、自分の部屋にもっていきなさいよ」
女が言う。
「はーい」
子供が答える。
「明日の朝は、ちゃんと自分で着替えるのよ」
女が言う。
「はーい」
子供が答える。

僕をいれた水色の幼稚園服がもちあがる。
乱暴な調子で僕はどこかに連れられていく。
きっと、あの子の部屋に行くんだな。
僕は、今夜、あの子の部屋で眠るのだな。
そして、この水色のポケットの中で朝を迎えるのだな。

突然、まぶしい光がポケットの中に射し込む。
見上げると、子供の、大きなふたつの目。
「おじさん、何してるの?」
僕は答える。
「おじさんはね、明日のことを考えていたよ」
「ふーん。おじさん、明日、なにするの?」
「さあ、わかんないな」
「ぼくはね、幼稚園へ行くよ」子供がうれしそうにいう。
「そう。いいな。おじさんも幼稚園へ行きたいな。ねえ、おじさんも明日、一緒に幼稚園に行っていいかな?」
子供が、すこし困った顔で僕をみている。
「ポケットの中でおとなしくしてるからさ」
子供が口を開く。
「ねえ、おじさん、牛乳好き?」
「うん。おじさん、牛乳好きだよ」
「僕は大嫌い。幼稚園でね、お昼に牛乳がでるの。おじさんさあ、ポケットの中で僕の牛乳飲んでくれる?」
「いいとも。おやすいごようさ。ニンジンだって食べてあげるよ」
「わーい。やったー。おじさん、明日、僕と一緒に幼稚園へ行こう」
「ありがとう。本当にありがとう。それとね、おじさんのことは、パパとママには内緒にしてくれるかな?」
「うん、いいよ。約束する」

僕はなんだか涙が出てきて、恥ずかしいから下を向く。
「泣いてるの?」子供の心配そうな声。
「ううん。ちがう。ほこりが目にはいったんだよ。ポケットの中はすこしほこりっぽいからね」
「ふーん。ねえ、おじさん」
「なんだい?」
「明日は雨だって」
「そう。じゃあ僕が濡れないように気をつけてくれよな」
「うん、わかった。おじさん、ぼくもうねるよ。おやすみ。また明日」
「うん。おやすみ。また明日」
うつむいたまま、僕は子供に手をふる。

僕をいれた幼稚園服がゆっくり床の上に下ろされるのを感じる。
カチッカチッと電気を消す音が聞こえる。

再び僕は、明日のことを考える。
明日、僕は、あの子と一緒に幼稚園に行くだろう。
そこには子供たちがたくさんいて、
みんなで歌をうたったり、大きな声で騒いだり、
誰かが誰かを泣かせたりするのだろう。
先生は優しい声で泣いた子供をなだめすかす。
僕はその一部始終を、あの子の、この水色のポケットの中で聞いて過ごす。
そして、時折開くポケットの隙間から、
なつかしい、雨の日の教室のにおいをかぐのだろう。

壁の向こうから女のヒステリックな声が聞こえてくる。
「あなた、これ誰のイヤリングよ。わたしのじゃないわ」
「知らないよ。ユウスケがどこかで拾ってきたんじゃないか」
「あら、あなたのコートから出てきたのよ。それにこの女物のハンカチもね」
「しらないって言ってるだろ!」男が大声を出す。
「しらばっくれないでよ!」女もまた大声を出す。

ふたりの激しい口論が聞こえる。
物がぶつかりあい、壊れる音が聞こえてくる。

うるさいなあと子供がつぶやく。

うるさいなあ。
本当にうるさいなあ。
たのむから静かにしてくれよ。
そんなふうに大声を出さないでくれよ。
あの子がうまく眠れないじゃないか。
あの子が明日、元気よく、幼稚園に行けないじゃないか。

投稿者 hospital : 2005年01月30日 04:15