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2005年03月13日

黒い足跡

仕事の都合でこの街へ来てもう3週間が過ぎた。

この街に住む連中がバスに乗っても電車に乗っても、席を譲らず、満員電車で「降ります」なんて言ってみた所で誰も道を開けてくれやしないってことにも、そろそろ慣れてきた。
好きなCDを見つけて家に帰り、開けてみたら音が鳴らないなんてことにも慣れてきた。

ただ、どうしたって慣れない事もある。
この街の至る所にある店という店の値札の付け方もその一つだ。
例えばスーパーで売られるチョコレートには「100(110)」という値札が付けられ、レストランのメニューのハンバーグの写真の下には780(1500)という値札が付けられている。
文房具屋でも家具屋でも同じことだ。
消費税だとかそんな洒落たものではないらしい。
観察していると、100(110)と書かれたチョコレートならば、100円払う者と、110円払う者がいるのだ。
金を持っていそうだとか、金を持っていなさそうだとか、そんな見た目に関係なく110円払う者もいるし、100円払う者もいる。
気分で100円にしたり110円にしたりするのだろうか。
釈然としなかったが、そんな風に納得していた。

会社へ向かうバスに揺られながらそんなことを考えていた。
バスからはたくさん人が降りる。
どこから沸いてきたのかと聞きたくなるほどの人間が降りる。
そして、それと同量の人間が新たに乗り込んでくる。

奴らの中に、足が3本もある者がいるということに気が付いたのはこの街へ来て一週目のことだ。
もちろん驚いたが、どうも彼らが周りの人間から特別な反応を受けるということはないらしい。
奇妙な値札と同じように、釈然としなかったが、奇形を持って生まれる病原菌か何かをこの地域が持っているのだと納得していた。
この街はそんな工業都市なのだ。

道端で頻繁に見かける人間の死体にしても同じことだった。
急速に発展したこの工業都市では、ひどく未整備な安全性と都会的な無関心が同居しているらしい。
今では自分も当たり前のように彼らの死体の脇を通り過ぎるようになった。
彼らの顔は血と泥で真っ黒に固まっている。
衣服も肌も見分けが付かないほどに汚れきっている。

そのような頭のどこかで気になっている複数の物事が、意識していない一瞬に一本の線でつながることがある。
今回の場合もそうだった。

あの値札と、3本足の人間と、虫けらのように道路に転がる死体が何らかの関係を持っているのではないだろうかと感じたのだ。

こう考えるきっかけとなった出来事は、やはりあの雨の日の出来事なのだ。
その日は大雨だった。
この街へ来て始めての雨だった。
晴れていた空が突然曇り、大量の雨が降り出した。
遠慮も何もないこの街らしい天気だった。
さび付いた歩道橋の下で腐っている死体も、横断歩道の真ん中で何度も車にひかれペチャンコになった死体もすべてが雨に濡れた。
街を歩いていた連中は突然の雨に驚き、おのおのカバンを傘替わりにしたりして、雨を除けながらあちらこちらへと走っていた。

歩道橋の下で雨が弱くなるのを待つことにした。
隣には死体が転がっていたが、何も感じなかった。
その死体を挟んで、一人の女が同じように雨宿りしていた。
若い女だった。
女は浅い灰色のパンツスーツを着ていた。
髪も服もびしょ濡れだった。
その女を見つめた。
何も雨に濡れた姿に発情したわけではない。
目を奪われたのはその女の腰の辺りにある不可解な黒い影だった。

それは影というより「コブ」といった方が良さそうなものだった。
小さな突起物がそこにあった。
服が濡れていることでそれが気づく程度に浮き上がっていたのだ。
それは瞬間的に、近頃気になっていた何かと結びついた。
3本足の人間を見た時と同じ感覚が頭の中にあったのだ。

その突起物を持っているのはその女だけではないらしい。
駅やバス停を目指して走る連中の中に、何人もその突起物を持っている連中を見つけたのだ。
もしかしたらすべての人間が持っていたのかもしれない。
濡れた衣服がピッタリとその突起物の輪郭に張り付いているのだ。

自分の腰の辺りを触ってみた。
あって当然の物なのではないだろうかと思ったのだ。
しかし、そんなものはなかった。
とっさに自分の腰を、持っていたカバンで隠した。
隣に立っていた女はそんな俺の行動を、訝しげな目つきで眺めていたが、雨が小雨になると雑踏に混じり消えてしまった。

突起は三本足に関係したものなのではないだろうか。
そう思ってみると納得が行った。
足になる前の、植物でいう所の芽のような状態なのかもしれないし、貧弱な三本目の足を小さく折りたたんだ状態なのかもしれない。

そして、次に道端に転がっている死体が気になり始めた。
死体は突起を持っているだろうか。
それを確かめるのは厄介なことではない。
死体はそこらじゅうに転がっている。
バスを降りるとすぐに死体を捜した。
誰かに気づかれないように、死体に近づき足で死体の腰の辺りを浮かした。
そこには突起物らしいものはなかった。
二つ三つと同じように死体を確かめたが結果は同じだった。
死体は突起物を持っていない。

そして、もう一つあの奇妙な値札について考えた。
会社へ着く途中にあるコンビニに立ち寄ってみると、やはり値札は()内と()外で分けられている。
100(3700)など大幅に金額が離れているものもある。
そうかと思えば、()のない商品もある。
何かわかることはないかとよく眺めてみると、あることに気づいた。

()の金額が付けられた商品はすべて輸入品だった。
()のない商品はすべてこの地域で作られたものなのだ。

会社へ着き、周辺にいる連中の腰の辺りを気づかれないように注意しながら眺めた。
突起物はないように思われた。
しかし、皆、オーバーサイズの服を着てそれを隠しているようにも思えた。
触りでもしない限り、突起物があるのかないのかはっきりとした確信を持てないのだ。

昼になり、暗い気持ちで食事を取りに外へ出た。
何も見たくなかった。
何人かの同僚と広い歩道を歩いていたが、誰も信じられない気がした。
突然、背後で低くうなるような太い悲鳴が聞こえた。
振り返ると、緑色の制服を着た連中が、同じ緑色のトラックに一人の若い女を引きずり込んでいた。
悲鳴はその若い女によるものだった。
女はやけに明るいオレンジ色の趣味の悪いスーツを着ていた。

「馬鹿な女だ」

同僚の一人がそうつぶやき、他の連中はそれに何も答えなかった。

翌日、オレはあいかわらず先日からの疑問を頭に残したまま、バスを降りた。
一つの死体が目に付いた。
道端に転がる死体。男も女も若いも何もないただの黒い血と泥に包まれた死体だ。
そしてその死体はオレンジ色の服を身につけていた。
汚れてはいたが、大部分はオレンジ色として残っていた。
趣味の悪い見覚えのある色だった。

オレはただひたすら自分が腰に突起物を持たないことを隠し続けた。

輸入品だけに付けられたあの奇妙な値札。
突起物を持たない死体。
コンビニから引きずり出され、トラックに積み込まれたあのオレンジ色の服を着た女。

「()の中の金額を払っていれば何も問題はない」

昼休み、会社の屋上でぼんやりとタバコをふかしていると、後ろから同僚が近づき、小さな声でそう言った。
一瞬、声が出ず、同僚の顔を凝視した。
同僚は一度辺りを慎重に見回した後、また俺の顔を眺めた。
聞きたいことはたくさんある気がしたが何を聞いていいのか分からなかった。
同僚はそんな俺に少し微笑んだ後、逃げるようにその場から立ち去った。


この街の中に、何か得体の知れないルールがあることだけが分かっていた。
そして、自分が守るべきルールも分かった。
それさえ守っていれば何も問題はないのだ。

なぜこの街の連中が、そのことについて何も語らず、暗黙のうちにこのルールが守られているのかは分からない。
ただ、ルールを守らなければ、俺もまたあの無残な死体と同じ運命を辿るのだ。

心の中に絶望とも安堵とも取れない重く甘い感情があった。
何かが発酵して放つあの甘酸っぱいような匂いが心の中に充満していた。

足元を一匹のゴキブリが逃げるように走り去った。

ゴキブリは古く小さな食堂の壁にある小さなひび割れに体を滑り込ませて消えた。

この街にある暗黙のルールがそのゴキブリの姿と重なって見えた。
そのルールを守るこの街の大量の人間とゴキブリの姿が重なって見えた。

そして、食堂の小さな窓に映った自分の姿がまだ人間の姿をしていることが、不思議なことに思えて仕方なかった。

投稿者 hospital : 2005年03月13日 11:06