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2005年07月04日

優曇華の花

午前中の忙しい時間帯、母と二人で銀行を訪ねた。
現在の会社の状況を、僕は担当の行員に話して聞かせる。
それは定期的に、時間を作っては、設けている習慣だ。

いつもそうだが、母はきまってうつろな顔をして僕達のやりとりに耳を傾ける。
青いフィルタの向こう側に母がいるような錯覚は、そんな時決まって僕を襲う感覚だから、僕はフィルタのこちら側でちらちらと母の様子を気にかけながら、口は独りでに必要な言葉を流暢に流し続ける。

その行員の笑顔はありきたりで、いつも僕はあくびを禁じえない。
その顔に向かって話す言葉もありきたりに聞こえるのだが、気持ちよく僕は話し続ける。

しゃべりすぎで乾いた喉を潤すために、前に置かれた湯飲み茶碗を口に持ってきて一気に飲み干す。
順調に打合せを終える。


夜、僕は自宅で母と二人、無言で過ごす。
僕は決まって手帳を眺め、仕事のことを考えながら、黙って日本酒を飲み続けている。
いつも思うことは、無言の母は一体何を考えて息子である僕を見ているのだろうか、ということだ。
普段僕は、母がそこにいることを完全に忘れているものだから、悪いなとは時々思う。


母が思い出したように、今日のできごとについて話し出した。

「優曇華の花が、湯飲みの脇に咲いていたよ」

「ウドンゲ?」
「今日、銀行いったでしょ」
「うん」
「優曇華の花っていうのかな、あなたたちが話をしている時に湯飲み茶碗の脇で花が咲いた」

優曇華の花というのは耳慣れないし、自分の考え事に没頭している時のことだったので、母の言っていることが僕にはさっぱり理解ができなかった。

「湯飲み?あの出されたお茶の?」
「そう」
「カビが生えてたってこと?」
「かび・・・、優曇華の花、うん、カビの一種かもしれない」
「意味がわからない」
「咲いていたんだもの」


「ウドンゲ」を辞書で調べてみる。

「インドの想像上の植物。3千年に1度花を開くという。/ごくまれなこと。」
とあった。


「想像上の植物だって。あるわけないよ」
「だって、あったんだからしょうがないじゃないの」


母が意味のしれないことを言い出すのは今に始まったわけではない。

母はどうやら、その優曇華の花に出会ったことを自分の中でどう捉えてよいのか心配していたようだったが、優曇華がごく稀な幸運という意味を持つことを知って少しほっとしているようだった。

僕が普段から何も語らないからなのか、母は自分の心の中にスペースを作っているのかもしれない。
僕としても同じことで、家にいるときは誰にも邪魔されたくないと考えている。


夜が深まっていく。
部屋には母と僕、二人だけ。
テレビは煩いので、滅多につけられることはない。

静寂。
湯飲み茶碗の脇に咲く優曇華の花というのを想像してみた。


席につき、打合せが始まるときまって女性行員が茶を運んでくる。

「ありがとうございます」

礼は忘れない。
そして打合せがはじまると、母の前に差し出された、湯気の立つ茶碗の脇に半透明の植物が芽吹く。
母以外には気づかれない優曇華の花。
青光りしていて、紫がかった花弁を持つ。
3千年に1度しか咲かない半透明の優曇華の花。


「以前も、優曇華の花を見たことがあるの?」
「ううん。今日、初めてみたから、驚いた」
「なんで優曇華の花だとわかったの?」
「なんていうか、そうだったから」

要を得ない返事は特に僕の頭を混乱させることはない。
ただ、日本酒が少しずつ僕の頭を麻痺させる中で、優曇華と言う花が今日とつぜん我々の前に現れた意味を深く考えた。
ボールペンを取り出して手帳に

「優曇華の花、咲いた」

と書き記した。
母の言うことが全て間違っているとは思えないけれど、僕が得意になって言葉を並べている時に、そんな得体の知れない想像上の植物がひっそりと、ありきたりの湯飲み茶碗の脇で咲いていたとしたら、それは不思議でこの上も無く幸福のような気がした。

「なにか、いいことあるかな」
「いいことあるといいよ。うん」

切り上げるようにして、僕はまた手帳に目を落とした。
考えを仕事に戻した。
日々の連鎖がそこに綴られていて、状況判断を頭の中でくみたてる。

まっしぐらな脳の回転に日本酒のアルコールが絡まる。
先ほどまで大切なことだと思って何度も何度も繰り返し咀嚼していた物事が、突然僕の頭から忘れ去られてしまって当惑するのものの、その当惑もあっという間に次の考え事にとってかわられてしまって、僕の脳みその中はきっとそれらの思考の死体で埋め尽くされてしまって、掃除が必要な気がするほどだ。


母の顔をちらり眺めた。
気づいて一人息子の顔を見返した。

鈍くなる頭で、優曇華の花を見たという母のことをとても大切に思った。

投稿者 hospital : 2005年07月04日 16:41