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2005年12月08日

ある夏の日

何の変哲もない真夏のある日。

一人で過ごしている。

玄関で呼ぶ声がするから気だるさをひきずって出てみると小太りの男が立っていた。
迷惑に感じられる、汗みたいな男だ。

「なんでしょう」

逆光だから、男の顔が黒い。
表情がよめず、外では蝉がやかましく、それは神経質な男が、戸外で一人わめき散らしているように聞こえる。

耳につく。


返事がない。

ただじっとそこに突っ立っているので、もう一度声を掛けようとして、顔が逆光で暗いのではない、全焼した木造家屋のように、すすけて黒い。
ということに、気づく。

顔の部分がそっくり焦げた男が、つったっている。

「あの」

上半身裸で、蛍光色みたいな、下品な色を使って、彼の体には刺青が彫られている。
暑い所為で、うっすら全身に汗を湛えているようで、その色が汗と一緒に流れ落ちてしまわんばかり。
蝉がなくほどに、どろどろどろどろ落ちていって、男はさっぱりの体になってしまうようにみえる。
全体、ちんけな印象だ。

男が、ぼそり口をひらく。


「生と死って曖昧だよなあ」

蝉の声が、さきほどよりじわりじわりと、男の汗と同様に勢いを増している、耳からそれは侵入して、蝉の声の液体の中に脳が沈められてゆき、液体が徐々に徐々に内部に伝わるように。

唐突の切り出しに、目の焦点があわなくなるような、へんなめまいに陥る。

「人は死ぬよなあ」

ワインを飲んで、窓の無いバスルームの小さな湯船につかっていて、湯はぬるく、恍惚として、いろんなものに思いを馳せるけれども、それらが浮かんでは消え浮かんでは消え、といったような虚無的な気持ちに、その自覚がないまま、陥っているような不安感の中で、じっとしているような、そんな気持ちに、男の声は響く。

こちらも依然としてつったっていることを余儀なくされているようで。

「そう思うのは、悲しすぎることだ。考えてみたら、そんなに悲しいことがこの世の中にあってたまるかって、かんじがするよ。それは誰しも思うことだとおもうのな」

外の真夏の色彩が、目の中に、さも今までは灰色の世界でしたが、これより色がつきます、とでも新技術をひけらかすかのごとく、にせものちっくに、だしぬけに、飛び込んできたので、さらに目の前の男の生気の乏しさが、がっかりと比較の中で浮きだされて。

「死ぬって、本当はないんじゃないのか。だって、自分が死ぬなんて想像もつかないし、そも、死が存在すること自体、考えられないほどに悲しすぎる話だよ。だって、無に帰すんだぜ。話にならないよ」

ぼーっと立っている。

「最愛の人のこと、思い出しても見ろよ。死ぬことなんて、考えたくもないだろう」

「考える必要なんてないんだぜ」

なぜ。

「初めから、死なんてものは、ないからさ」

「目の前のおっさんが、生きている証明が、口を動かして言葉を語り、心臓が勝手に動いて」

断続的な蝉の声の点と点の中に、顰蹙をかうほどの、ぶっきらぼうで傍若無人な無を置いてしまうと、そこでひとたび失われたリズムが、やがてはもちなおしてきて、徐々に調子をとりもどし、前よりも大きく回復するのだけど、またも置いてしまうから、けれど、それを迷惑そうにも思っていない様子で、永遠に続きそうな虚無的なリズムが、とても悩ましく、またも置いてしまう。

「呼吸が無意識に繰り返されるということだったらだよ。それらが止められてしまったことが死ということだったらだよ。考えてみたら、よくわからねえ現象だと思うんだよなあ」

「なんて、かく言う俺もな、実は知ってるんだ」

「死なんて、世の中にはないってことをさ。最初は信じられないことかもしれないけれど、徐々に分かるぜ」

男の蛍光色な刺青の、緑の部分がやけに目に付く。
それが汗と一緒に流れ落ちているように見える。
残念なことに、錯覚であって、本当にそれは肌に掘り込まれているものだとわかる。

「安心しな。あちこちに死は横たわっているし、初めからそんなものは存在しないのさ」

こんな男と、日中に、玄関先で立ち向かっていること自体、自分がいけないことをしているのではないかと、ふと考えにいたる。

残念な男だ。

声が悲しげに響く。

それは、一人の夜を得体の知れない不安に脅えながら、自分の心の中から湧き上がる誰かの小さな叫び声を、大音量でかけながら、ひっそりと作業をしているようなときに、ふいにもれる声のように。

「な」

男は白いすててこをはいていて、そのへんのおっさんの散歩の道すがらのスタイルで。
そんな男が我が家の玄関先で、なれなれしい様子でたっている。


それが、やけに、なつかしい。

「そのうち、きっとわかるぜ」

かといって、許しているわけではなく、むしろ憎たらしい。


地面がぐにゃりとうごいた感覚。
最近よくある感覚だ。

男はまた、黙った。


少々飽きて、大きなあくびを、一つかいた。

投稿者 hospital : 2005年12月08日 21:25