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2006年03月12日

一年ぶりの電話

しばらく会ってなかったから電話したの?

電話口からは冷たい声が返ってきた。
その女性は1年前まで一ヶ月に一度ほど会っていた人だ。
会っていたと言っても特別なことはなく、
ただ買い物をしたり、映画を見に行ったり、美術館へ行ったり
それだけのことだ。
お互いそれ以上のことは望んでいなかったように思う。

1年間、連絡も取らずにいたのは、その微妙な距離感のせいだった。
こちらからもう少し何らかのアプローチをすれば良かったのかもしれない。
でも、結局そうすることはなかった。
彼女はそのことを責めているのだろう。
返す言葉が見当たらなかった。

久しぶりにどこかで会おう

そう言おうとしたところで、彼女が言った。

今、忙しいの。切るね

そこで電話は終わった。
特に美人でもないあの女に、冷たくあしらわれてしまった。

特に美人ではない

私の心の中でその言葉がこだました。
電話を手に取り、もう一度彼女に電話した。

彼女が出ると、私はすぐに話し始めた。

今日、電話をかけたのは久しぶりに話そうと思ったとか、映画を見に行こうとかそういうことじゃないんだ
一つ伝えたかっただけなんだ

私は思い切って先ほどの言葉を口にした。

特に美人ではないじゃないですか

なぜかセールスマンのような口調になった。
彼女は何も答えなかったが
電話の向こうから、何か声にはならない声が聞こえてくる気がした。
私は続けた。

スタイルも良くないですし

相変わらず敬語だった。

性格は悪くないんですが
見た目は良くないけど、性格は悪くないって、どうなんでしょう

自分で何を言ってるのかわからなかった。

あなた、寂しい人なのね

彼女は一言そう言った。
辛そうな声だった。

私、今、本当に忙しいの。切るね

そこで電話は切れた。


終わった。

惨敗だ。惨めな敗北。
なんなんだオレは。
一体なんだったんだ。今の自分の行動は。

私は気持ちを静めようと風呂に入った。
蛇口が電話に見えた。
意味もなく蛇口に噛み付いた。
硬く冷たかった。

風呂から出るともう一度電話を手に取り、彼女に電話をかけた。
もう出てくれないと思ったが彼女は電話に出た。
彼女は先ほどよりも穏やかな声で言った。

今用事が済んだから

どこへ行ってたの?

銀行よ
銀行というか消費者金融

どうして

どうしてってお金がなくなったから

どうしてそんな所でお金を借りたの

私の勝手でしょ
駅から家まで歩くからその間、あなたの話を聞くわ

・・・

どうして何度も電話をかけてくるの?
冷たくあしらわれて悔しかった?

そうだ

今度は何を言いたいの

さっきはすまなかった

別にいいのよ

自分でもどうして今になって電話をしたのかわからないんだ
きっと安心したかったんだと思う

私なら何も変わってないわよ、一年前と。
ちょっと太ったけどね

何も言葉を返せなかった。
彼女は私の考えていることを何でも知っているようだった。

もうすぐ家に着くから

彼女はそう言った。

わかった

そう言って電話を切ろうとした時、聞きなれた音が聞こえた。

「おいしい。おいしい。丸ちゃん弁当。あなたも一つ、幸せ弁当」

家の近くの弁当屋のアナウンスだ。
寂れた街並みによく似合う、ひとかけらのセンスもないアナウンス。
でも、どうして彼女の電話から。

今、どこにいるの?

踏み切りの近く

踏みきり?踏切って俺の家の近くの?

そう

近くに住んでるの?

そうよ

いつから

一年ちょっと前かしら

どうして言ってくれなかったの?

聞かれなかったから

でも、どうして・

聞きたいことはたくさんあるような気がしたが何から聞いて良いのかわからなかった。

近くってどの辺り?

だから、あの踏みきりの近くよ
あの踏切を渡って左に曲がって50メートルくらいの小さなアパート

小さな踏みきりを渡って左に50メートル・・
それってウチの目の前じゃないの?

そうよ


気が動転した。
どうして今まで気づかなかったんだろう。

私見つからないようにしてたから

見つからないようにって言ったって一年も目の前のアパートに住んでたらどうしたってわかるだろう

私、外へ出なかったの

出なかったってどういう意味?

そのままの意味よ。まったく出なかったの

一度も?

一ヶ月に一度くらいは出たわ。お金がなくなった時に

食べ物は?

出前

一日中家にいたの?

そう

何を、、何をしてたの?

あなたの家の音聞いてた

家の音?

うん、盗聴器
今日は久しぶりに外へ出たの。疲れちゃった
そろそろ切るわ。もう家の前だから

私が何かを言う前に電話は切れた。
私は電話をテーブルに置くと、取り憑かれたように窓へ近寄り、カーテンをあけた。

線路を挟んだ目の前のアパートの前には
ピンク色のセーターにピンク色のスカートを合わせた女性が立っていた。
歩くのもやっとなほど病的な太り方をしたその女性が、ニコニコと笑いながら
なにやら私の方に向かって手を振っていた。

投稿者 hospital : 2006年03月12日 11:40