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2006年03月18日

血口まで行こう

あいつ、もう血鼻になってる
止めてやろう

止めたらあいつが可哀想だ

でも、あいつもうあんなに血鼻になって

止めるな
それがあいつの望んでることだ


あいつは血鼻になって彼女の前に立ち尽くしていた。
彼女の方も困っている。
「血鼻になってるよ」
彼女は気を使うような顔をしてあいつに言った。
『気を使うような』この態度が更にあいつの血鼻を加速させた。

鼻のすべての毛穴からいっせいに血が噴出す。
彼女は、あいつが気づかないようにわずかに退き、血が自分にかからないようにした。
そして、『気づかないように』という、この気の使い方が更にあいつの血鼻を加速させた。

毛穴から流れ落ちるようだった血は更に勢いを増し、水鉄砲のように線形を描いて噴出した。
避ける術も無く、彼女の美しい顔は真っ赤に染まった。
「私の顔に・」
彼女はそう口に出すと同時に、『しまった』という表情をした。
そして、恐る恐るあいつの顔色を伺った。
この『恐る恐る顔色を伺う』という彼女の行動が、あいつの中にわずかに残っていた希望を完全に断ち切ることとなった。


血目だ

ああ

止めるか

いや、もう遅い
もう止めても無意味だ

どうする

見よう

見るって

見届けよう

・・・


あいつの目は真っ赤に染まり、涙のように血が流れ出した。
「血目までいかないでよ」
彼女は涙目になってそう訴えた。
「血目までいってどうしたいの?ねえ、どうしたいの?」
彼女は泣きながらそう訴えた。

あいつは鼻血を出した。

「僕だってなんだ」

あいつは疑問とも主張とも取れない言葉を吐いた。
それと同時に口に流れ込んでいた鼻血が飛び散り、再び彼女の顔にかかった。


あれ、血口じゃないのか

いや、あれは鼻血が口に入っただけだ

そうか、そうならいいが


彼女は再び顔に付いた血を手のひらでぬぐうと、突然、顔を上げて叫んだ。

「何なのよあんた!」

あいつは動かなかった。
下を向いたままピクリとも動かなかった。

「何か言いなさいよ」


(ばっきゃろう)


それは声というより、むしろ血だった。
口から霧状に噴出した血が耳から私たちの脳内に入り、その言葉を知覚させる、そんな感覚だった。


血口だ

初めて見た

オレもだ

どうする

どうするも何もない

良かったな、あいつ

まあな

あいつまた戻りたかったんだろ

そうみたいだな

あいつの顔は突然霧のようになって私たちの目の前から消えた。
そこには影のような黒い跡だけが残った。

死んでからというもの、私たちは生きている間の嫌なこと楽しかったことを超えた不思議な感覚で生活していた。
死んでいる以上、生活しているという表現もおかしいが、それは生きている感覚とさほど変わらなかった。
もちろん、足も体もなく、あるのは顔だけではあるが、その顔も自分の想像通りに操れるものだった。
つまり、この世界のすべての元人間たちは美男美女となっていた。

この世界はとても居心地の良いものだった。
現世に未練のある者は少なかった。

血口までいくと現世に戻ってしまう

そういう噂が流れていた。
はっきりと信じていたわけではないが、私たちは自然と感情的にならないように気をつけていた。

そして、あいつは今、私たちの目の前から消えた。
あいつは現世に戻ったのだ。

私たちは戸惑い、あいつが消えてしまった跡をしばらく眺めていたが
その跡が消えるのを見届けると
また無数の顔の流れの中に戻り、のんびりと漂うことにした。

投稿者 hospital : 2006年03月18日 14:17