« 新築訪問 | メイン | ずけずけと »

2007年08月17日

大きな左手

手が大きくなった。
何かにぶつけて腫れ上がった程度のものではなく、それはビルくらいはありそうなサイズだ。

その事に気が付いたのは目が覚めた時だ。
目の前に横たわる巨大な手。
自分が小さくなったのか、あるいは手が巨大化したのかは、遠近感覚が麻痺してしまった以上確認する事ができない。
ただ、ぼんやりとだらしなくそして握り締められた、巨大な左手だった。

僕はまず左手の小指に足を引っ掛けて、えい、や、と登ることに成功した。
なにぶん両手を存分に使えない不自由な状態だから非常に苦しい作業である事はいうまでもない。
右手の指先を左手の小指の指紋のひだにすべりこませて右足をどこかひっかかりにうまくのせようとするも、爪は滑らかでどうにもうまくゆかない。
昨晩習慣となっているハンドクリームを塗ってあるからなおさらなのだけど、それでもどうにかこうにか小指によじのぼり、薬指と小指の隙間を身をかがめて滑り落ちないように注意を払いながら登っていく。
眼下を眺めれば高所がだめな僕には目がくらむような景色。
床なのか大地なのか、とにかく僕には先ほど来遠近感覚がよくつかめておらず、落ちてもひょっとしたらなんでもない高さなのかもしれないが、目はくらむし、落ちる勇気も無ければ落ちる意味もないような気がした。
腰が痛む。
無理な姿勢のまま歩き続けて間接を二つ通り過ぎると中指の付け根に通じる坂道があり、それはあまりにも急峻で立ちくらみを覚えた。
外側の崖を上っていくのはあまりにも危険に感じられたので僕は坂道の手前左側に穿たれた洞窟、つまり掌側へと向かった。
じっとりとしめっていて十分に光の届かない広大な薄闇の空間。
手相の事を勉強したわけではないので詳しくはわからないけれど、生命線だの知能線、どれかに沿って歩いていけば上のほうへいけるのかもしれない。
上を目指す理由もわからないのだけれど。

ふと感じる。
僕が左手に力をいれて精一杯握り締めたら僕自体どうなってしまうのだろうか。
むんずと握りつぶされてしまって、全身の骨がばきぼきと砕かれてしまうのだろうか。
十分に考えられることだから、誤って左手に力を入れないように気持ちを集中させながら、僕は掘り込まれている掌の線に沿ってとにかく上と思われる方向へ、あせればあせるほど汗腺からふきだされる汗に足をとられないように注意しながら探検をしている。
何本の線から線へと移動してどれだけ歩いたろう。
足が汗に滑ってもう駄目かと思った瞬間体が掌のくぼみにすっぽりとおさまってなんとか助かったりしながらも、僕の探検は続いた。

どのくらい経ったろう、遠くに光が差している場所が見える。
薄闇に目が慣れていた僕には強すぎる光に包まれ、新鮮な空気が頬を撫でる。
長い間左掌の湿った洞窟を探検していたのだからふと全身の緊張が解ける。
足元を眺めると中指の上に自分が立っていることがわかる。
子供の時分、美術の時間に誤って彫刻刀で傷つけてしまった傷がある。
痛みを思い出した反射からか、ぐっと掌に力をこめてしまって先ほど這い出してきた穴がぐっとすぼまる。
掌から押し出された空気圧が僕の背中を押し、すんでのところで傷に足をひっかけて落ちるのを防ぐ。
ひやりとした。
間一髪昔の傷のおかげで僕は命拾いをした。

さあ、上を目指そう。
なにかとっかかりを、と探していた目に付いたのは人差し指に群生する産毛。
産毛をロープ代わりにして何本か伝っていけば、やがて親指の先に到達できるかもしれない。
以前友人に誘われて岩場の海水浴に行ったときを思い出す。
ごつごつした岸壁を誰が設置したのかわからないロープを伝って降りていったものだ。

今僕には右手しかない。
果たして右手だけで産毛をたよりによじ登っていくような芸当ができようものか。
先ほどきた道を引き返すにしても、またなにかの拍子で左手に力を入れてしまったらと思うとためらわれる。

一本だらしなくたれさがる産毛をつかんで切れてしまわないか思い切り引っ張ってみた。
痛っ。
・・・・・・。

目が覚めたと思ったのに、また目が覚めていた。
寝ぼけながらも左手の人差し指にのこるかすかな痛みを感じる。
遠近感を失った僕にはいったい何事が起こっているのかまったくつかめていない。
右手にはもう産毛とはよぶことのできない太くて長い毛が握り締められている。

投稿者 hospital : 2007年08月17日 01:43