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2007年10月07日

初体験

あと数日で、夏休みが終わろうとしていた。
僕は彼女の部屋にいた。

始めよう。
と僕は言った。
うん。
と彼女が頷いた。

僕は彼女を抱きしめた。
彼女を強く抱きしめた。
彼女のことを強く想いながら。

きっと彼女も、
そうしていたんだと思う。

やがて僕たちのからだは、宙を浮いた。

「ほんとうだった!」
彼女が嬉しそうに言った。
「うん。ほんとうだった」
「ヤスコ先生の言ってたこと、ほんとうだったんだね」
「うん」

ゆっくりと僕たちは浮かんでいく。
僕たちの、本当のからだを残して。

「わ。天井にぶつかる」
「大丈夫」

幽霊みたいになった僕たちのからだは、
音もなく天井を通り抜ける。

「すごいすごい。すごいなノブくん」
「うん。すごい」
「どこまで飛べるのかな」
「わからん」

抱き合ったぼくたちは上昇する。
真っ暗な天井裏を、彼女のうちの瓦屋根を通り抜ける。
僕たちはいま、空中にいて、彼女の家を見下ろしている。

「あ」
「どうしたの、ノブくん?」
「部屋の電気ついたまま」
「いいのいいの。今日はお母さん、お婆ちゃんのうち行って帰ってこないし」

上昇は続く。
夜空から見下ろす街の輪郭は段々と小さくなって、
やがて光だけを残して闇へと沈む。
見下ろす街の夜景は、逆立ちして眺めた星空みたい。

「あ。あれ。ノブくん、あれみて」
「え」

大きな県道のある方角に、
たくさんのカップルが浮かんでいるのがみえる。

「わー。飛んでる人たくさんいる」
「うん。あのへんラブホテルがいっぱいあるから」
「みんな知ってるんだね、空飛べるの」
「うん」
「でも、なんでみんな内緒にしてるのかな?」
「わからん」
「だって、わたし、セックスだってこないだまで知らなかった」
「俺は四年生のときから知ってたよ。兄ちゃんがビデオ持ってたから」
「お兄ちゃんエッチだ」
「男はみんなもってるよ」
「ノブくんももってるの?」
「うん。こないだバスケ部の先輩にもらった」
「バカ」

彼女が僕の頭を小突いた。
その拍子に、それまで抱き合っていたぼくたちのからだが離れる。
ふわりと僕より高く浮いていく彼女を引き寄せるために、
僕は彼女の手を握る。

「空飛ぶの難しいな。ノブくん、練習しよ」
「うん」

空を飛ぶのはそれほど難しくはなかった。
一度コツさえつかめば、思いのままに飛ぶことが出来た。

上昇と下降。加速と失速。
ジェットコースターが苦手のはずの僕が、
不思議と恐怖を感じなかった。
猛スピードでの方向転換も。
地面めがけての急降下も。
彼女がそばにいてくれさえいれば、
なんにも怖くなかった。

「すごいな。すごいなノブくん。こんなのって本当にすごい」
「うん。すごい。すごくすごい」
「セックスよりずっとすごい」

空飛ぶ僕らは港を目指した。
途中、いくつかのカップルとすれ違った。
僕らはお互いに手をふっって、挨拶を交わした。
普段歩く街中よりも、ずっと人々は優しい顔をしていた。

港の上空で僕たちは再び抱き合った。
抱き合ったままの姿勢で、
僕は海を、彼女は反対側の街を眺めた。

海の向こうの埋め立て地には、空港の灯りがみえた。
街の向こうの山には、電飾でこの街の名前が浮かんでいた。
僕らの隣には、赤く光るこの街のシンボルタワーがあった。

「ねえ」
「うん」
「この街好き?」
「うん」
「わたしも。ずっとこの街にいたかった…」

僕は何も言わず、
彼女もそれ以上は何も言わなかった。
空中に浮かんで、無言で抱き合う僕たちを、
月だけがみていた。

「ねえ、ノブ君、次どこいこ?」
「きまってるだろ」
僕は月を指さした。

月に近づく。
月の周囲にはたくさんのカップルが手を繋いで飛んでいる。
老若男女。男同士、女同士で手を繋ぐ人たちだっている。
無数のカップルが、月の周りにひとつの軌道を描く。
僕らもその後について、月の周りを皆と同じ方向へと進み、
ひとつの軌道の一部になる。
真下にみる月の表面はテレビや写真で見たとおりにでこぼこで、
遠くに見える地球もまた、テレビや写真で見たとおりに丸く、青い。

「ねえ、ノブ君。みんなどこいくかわかってる?」
「わからん」
「わたしわかる」
「どこ?」
「オリジナルラヴ。月の裏で会いましょう」

やがて前方を飛ぶカップルの群れが低空飛行を始め、
ゆっくりと、やわらかに、その目的地へ着陸したとき、
僕らは月の裏側を知る。

月の裏側は、大きな大きな公園だった。
芝生があって、木々があって、小川もある。

「なんだ。ウサギはいないのね」
「うん。でもカップルはたくさんいる」
「いろんな人がいるね」
「うん」
いろんな人がいる。
いろんな年齢のいろんな人種のいろんなカップルがいる。
「お父さんとヤスコ先生もいるかも」と彼女が言う。

この夏の初めに、彼女のお父さんは、
彼女の家庭教師だったヤスコ先生と一緒に、
どこかに行ってしまった。

二人がいなくなる前のある日、
ヤスコ先生は、駅前の喫茶店に僕たちを呼び出し、
この秘密を教えてくれた。

本当に、本当に愛し合う二人は空を飛ぶことが出来るって。

冗談ではないかと思ったし、本当なんだろうとも思った。
この世界には、キスやセックスよりも、「つきあう」や結婚よりも、
好きだとか愛してるとか言うよりも、
ずっと確実に愛を確かめ合う方法があって、
それが空を飛ぶことなんだと、ヤスコ先生は僕たちに説明した。
みんなそれを知っていて、みんなそれを秘密にしている。
そろそろ僕たちは、それを知ってもいいのだとも、ヤスコ先生は言った。

カップルたちの大半が、芝生に寝そべり星空を眺めていた。
僕らもそれに倣って、空いた場所に並んで寝そべった。
そして手を繋いで、星空を眺めた。

月から眺める星空は、宇宙から眺める宇宙。
星がとても近い。星がとてもたくさんある。星と闇がどこまでも広がっている。
僕は宇宙の広さを知る。この世界の本当の広さを知る。
そして、そんな世界で彼女と空を飛び、いま月にいることを想う。

そのときの感情をうまく言い表すことは出来ない。
ただ本当に、本当に幸せだって気持ちは、
こういう感じなんだってことを、初めて知った気がした。

「ノブくん、わたし分かった」
「なにを?」
「なんでみんな空飛べるの内緒にしてるのかわかった」
そのときには僕も、その答えには気がついていた。
「空飛べない人かわいそうだもん。空飛べる相手、みつけられない人かわいそうでしょ」
「うん。そうだ。きっとそうだ」

月からの帰り道は、学校からの帰り道みたいに、他愛のないおしゃべりをした。
クラスの誰かのことや、好きなバンドの新曲ことや、テレビドラマなんかのことを。
そのとき僕たちは気がついた。
もうどんなラブソングも、どんな恋愛ドラマも、ちょっぴり滑稽に思えてしまうだろうことを。
その夜僕たちは、この世界の、本当を知ってしまったから。

やがて彼女のうちが近づくにつれ、次第に僕らの口数は減り、
空飛ぶスピードもまた、次第にゆっくりとなっていった。

彼女のうちの、彼女の部屋の灯りがみえたころ、彼女が言った。
「また会えるよね」
「うん。きっと会えるよ」

また一緒に空を飛ぼうとは、彼女は言わなかったし、僕も言わなかった。
僕らはわかっていたんだ。
いつか僕は、彼女の以外の誰かと空を飛び、
そして、彼女もまた、僕以外の誰かと空を飛ぶだろうことを。

窓から彼女の部屋を覗き込むと、
抱き合ったままの僕たちの本当のからだが、
僕たちの帰りを待っていた。

二学期が始まって、教室に彼女の姿はなかった。
家庭の事情で、遠い街に引っ越したのだと、担任の先生がクラスのみんなに説明した。
授業が始まる前の休み時間、クラス中は彼女の話題でもちきりだったけど、
僕だけは知っていたから、ひとりでぼんやりと、窓の外の、青い空を眺めていた。
いまも誰かが誰かと空を飛んでいるんだろうって、思いながら。

あれからずいぶんと時はたち、僕もずいぶんと歳をとった。
5人の女性と交際をし、そのうちの3人とは空を飛んだが、もうしばらく空を飛んでいない。
夏の終わりには、きまってあの夜のことを思い出す。
そして月の綺麗な夜には、無性に誰かと、空を飛びたくなったりもする。
無性に誰かと、月に行きたくなったりする。

投稿者 hospital : 2007年10月07日 13:29