« 世界の終わりが終わったら2 | メイン | 夢のある生活 (※お蔵出し) »

2012年07月07日

俺んちのオレンジ

その日、俺は、いつものように昼過ぎに目を覚まし、いつものように酒を飲みながら、いつものように妻の帰りを待っていた。
いつもと変わらぬ日常。いつもと変わらぬ気怠るさ。いつもと変わらぬ無精ひげで寝癖ぼうぼうで上下スウェットの俺。

ただその日が、いつもと違っていたのは、きょう一日分の小遣いが置いてあるはずのテーブルの上に、オレンジがひとつ、置いてあるだけだったこと。
そして、夜になっても、妻が帰ってこなかったこと。

いつも夕刻にもなれば、近所のスーパーでのレジ打ちの仕事を終えた妻が、見切り品の惣菜や果物を抱えて帰ってくる。
ふたりでそれらを食した後、しばしテレビを眺めたり、歓談などをし、風呂にはいって妻は就寝、俺は自室で小説を書くのを日課としていた。

もっとも、小説を書いているなんていうのは嘘っぱちで、本当は電源のついていないPCモニターに向かって、ウィスキーの小瓶をちびちびやるだけ。なにもしない時間をなにも考えずに過ごし、明け方の、焦燥と倦怠が気化してできたようなまどろみの中、いつの間にか現れた睡魔が、つまらないテレビのスイッチを切るように、一日を終わらせてくれるのをじっと待つだけの日々。

俺が妻への相談もなく仕事を辞めて、小説を書き出したのが2年前。それまで俺はとてもよく働いていたから、しばらくは、夫婦二人が暮すための蓄えは十分にあるはずだった。そして俺はとても才能があったから、すぐに小説家として食っていけるはずだった。

ところが、俺の知らぬ間に妻がこさえた借金の返済で蓄えはあっという間になくなり、そして、俺は俺が思ったほどには小説をうまく書くことができなくて、すぐに俺たちは金に困った。

借金のことが負い目になってか、それまで一度も働いたことがなかった妻はスーパーでレジ打ちのパートをはじめた。俺が小説で稼ぐようになるか、あきらめて再び職に就くまで家計を支えるのだと言った。それでもやっぱり自分だけが働くことに不満があるのか、最近はヒステリックになることもあったし、急に泣き出すこともあった。

だけども、俺はいつまでたっても小説を書き終えることができなかったし、とうに働く気も失っていたので、そんな妻にかける気のきいた言葉がみつからず、うるせえ、だの、泣くな、だのと声を荒げたり、時には小突いてみたりするだけだった。

そして今日。深夜。
妻は帰ってこない。
俺は腹が減っていた。

結婚以来、こんなことははじめてだったし、ひどい空腹でもあったので、俺はすこしハイになっていた。

これは事件にちがいない。俺のくたびれた日常に起きた非日常なサスペンス。

俺は高ぶる気持ちを抑え、冷静になろうと努めた。
とっておきのバーボンを開け、グラスに注ぎ、ストレートで飲み干した。
両切りピースに火をつけた。
妻の行き先について考えを巡らせた。思い当たる節はない。
仕方なくもう一度バーボンをストレートで飲み干した。
両切りピースに火をつけた。
何かこの家に手掛かりがあるはず。あたりを見回す。よくわからない。
いつもと違うことといったら、テーブルの上にオレンジがひとつあることだけ。

そんなこんなでバーボンを一瓶飲み干したころ、俺は完全に酩酊していた。
目が回る。気持ちが悪くなる。トイレに駆け込み、腹の中の液体をすべて吐き出した。

そのとき、ひらめいた。
わかったぜ。わかったぜ、俺は。
妻の居場所を。この事件の真相を。

妻はどこかに消えたわけじゃない。
妻はこの家に帰ってきてないわけじゃない。
妻はこの家にいる。

テーブルの上のオレンジに手を伸ばし、目の前の高さに持ち上げる。
おい、ふざけるのもいいかげんにしろ!
俺はオレンジに向かって怒鳴りつけた。

妻よ、わかってるんだぜ、俺は。
お前がこのオレンジになっちまったに違いねえってことを。

とかく、あいつはオレンジが好きな女だった。
オレンジ色が好きだった。オレンジ色のものばかり好んで買った。
そして、オレンジ色の服や鞄はエルメスにかぎるなどとも言っていた。
もっともそれは俺がとてもよく働いていたときのはなしで、いまはニトリで買ったオレンジ色のクッションカバーを機嫌よく眺めているくらいのものだった。

そういったわけで、妻のオレンジ色を愛するあれが、妻をオレンジにしちまったのですなあ。人間の業というのはなんとも凄まじいものですなあ。しかし、ま、これにて一件落着。妻は俺んちでオレンジしてます。なんちてー。おあとがよろしいようで。
などとひとりごちながら、事件が解決した祝いに、バーミヤンでエビチリでもつつきながらビールでも飲もうと思い、はたと気がついた。

金がない。

小遣いをせびろうにも妻はオレンジになっているし、そもそも妻の鞄や財布が見当たらない。
畜生。やってくれるじゃねえかよ。
テーブルの上のオレンジを思い切り睨みつける。
財布もカードもあれか、その皮の中に隠してんのか。え。どうなんだ。早く金出せ。ぶつぞ。いや、むくぞ。
なんてことをオレンジになった妻に話しかけても、返事はない。

困ったぜ。このままでは飢え死にしてしまう。
俺は新たな事件の解決に迫られていた。

そのとき、家のチャイムが鳴った。
玄関のドアを開けると、見知らぬ女が立っていた。
女は夜分の訪問を詫びた後、女の夫が家に帰ってきていないことを俺に告げた。
知ったことではない。何をいっているのだろうと俺は思った。
さらに、女は、女の夫が、普段は俺の妻と同じスーパーで働いているとも言った。
だからなんなんだ、と俺は思い、「だからなんなんですか」と俺は女に言った。
その問いには答えず、「奥さまは、御在宅でしょうか?」と、女が尋ねた。
「いえ、いません」と、俺。
「やっぱり」と、肩を落とす女。
「ただし、以前の妻はもういないという意味であって」と、俺はつけ加える。
「今はすこし、いや、だいぶ、姿かたちを変えてここにいます。」
俺は右手に持ったオレンジを女にみせる。
「はあ。」
戸惑う女。無理もない。
俺だってまだ気持ちの整理がついていない。

しばしの沈黙。
女は目に涙を浮かべ、困った顔で俺をみつめている。
何か優しい言葉をかけたいと思うが、その言葉がでない。
ただ、その代わりに、俺の腹がぐうと鳴る。
とても腹が減っていることを思い出す。

「奥さん」
「はい」
「実はね、わたくし私立探偵を生業としておりまして」
「はあ…」
「ご主人の捜索に是非協力させてください。」
「あ、はい…」
「このちかくに、バーミヤンという名の気安い中華食堂があります。そこでご主人のこと、詳しくきかせてもらえませんか。」

ビールを飲みながら、注文したエビチリが運ばれてくるのを待っていた。
夜の暗がりの中では気がつかなかったが、バーミヤンの明るい蛍光灯の下でみる女は、ほんのついさっきまで働いていたかのように、品のいい上等なスーツに身を包み、おそらくは高価なアクセサリーを身に着けていた。
さながらどこかの女社長か高給取りのキャリアウーマンといった風情だ。

対して俺は、寝癖も直さず、無精ひげで、上下スウェット。
家から持ってきた、元は妻だったオレンジを、スウェットパンツのポケットにいれているせいで、股の近くでこんもりとしていた。

およそ似つかわしくないカップルにみえるのだろう。周囲の客がちらちらとこちらを眺めているのがわかる。

俺は、どうにか探偵らしくふるまうため、テーブルに両足を投げ出す。
両切りピースに火を付けて、輪っか状にした煙を吐く。
あたりをじろりと見回すと、客たちが怯えたように目を伏せる。
「さあ、奥さん、ご主人のこと、きかせてもらいましょうか」

堰を切ったように、女が話し出した。
女の夫が以前は会社を経営していたこと。その会社が、ある日、予期せぬ事故で多額の負債を抱えて倒産したこと。夫は債権者に訴えられ、裁判が終わるまでしばらくは外で働くこともできない日々が続いたこと。その間は女が働き口をみつけ、糊口を凌いだこと。もともと夫は女が外で働くことをよしとしなかったが、背に腹は代えられず、主夫にあまんじながら、毎朝、女が仕事へ行くのを見送っていたこと。一方で、女はもともとその才があったのか、あっという間に出世し、そのうちに独立したこと。経営する会社は、夫が以前経営していた会社よりもずっと上手くいき、順風満帆なこと。このあたりから夫婦間がぎくしゃくし始めたこと。そうこうするうちに裁判も終わり、晴れて自由になった夫を自分の会社に誘うものの、夫は自分の力で一から事業を始めたいと断り、次の事業の準備をしながら近所のスーパーの青果コーナーで働いていたこと。そして、今日、仕事を終えて家に帰ると、いるはずの夫がいなくなっていたこと。

「わたしが悪いんです。わたしが出すぎた真似をしたから。夫はプライドの高い人だったから、きっと私に負けてるような気がして、すごく嫌だったんだと思います。以前、夫に言われたんです。自分の給料だけで、ささやかながらでも生活は出来るはずだから、仕事を辞めて主婦に戻ってくれないかって。そのうちに昔のように稼ぐようになるからって。でも私、いまの生活を捨てるのが嫌だったし、なにより私、働くことが好きなんです。また家庭におさまって主婦をやるだなんて、とても考えられなかった。それで、わたし、夫に言ってやったんです。あなたは働かないで、家のことをやってくれてればいい、わたしの方がずっと商売に向いてるんだから、って。そしたら、大ゲンカになって、そのときにきっと、夫はもう私のこと愛せなくなって、それで、それで…」

そこまで話して、女はわっと泣き崩れた。

「奥さん、落ちついて。とにかくご主人の行方について考えてみましょう。ご主人はなにか手掛かりとなるようなものを残していきませんでしたか」
「は、はい。えーと、主人の車が残されたままでしたので、スペアキーでドアを開けて、中を調べてみたんです」
「ふんふん、それで?」
「まず、運転席のシートの上に、封の切っていない煙草がひと箱落ちていまいした」
「それだ!」俺は叫ぶ。「奥さん、それですよ。銘柄はなんです?」
「マイルドセブンです。」
「むむ!なるほど。」
「何かわかるんですか?」
「もしや、ご主人はマイルドセブンが好きではありませんでしたか」
「ええ。まあ。毎日吸ってましたから」
「ははーん。やっぱり。奥さん、落ち着いて聞いてください」
「はい」
「そのマイルドセブンはご主人です」
あっけにとられた顔をする女。
「ご主人が家にいない理由。それは、ご主人がどこかに行ってしまったわけじゃない。なんらかの力がなんらかの現象を起こし、なんらかの作用でご主人は今日、マイルドセブンになってしまったのです。」
「はあ。でも、その、なんらか、ってのはなんなのでしょうか」
「たとえば宇宙人です。戯れに地球に降り立った宇宙人が戯れにスーパーに立ち寄り、戯れにそこで働くひとりの男に、家に帰り次第自分の好きなものに姿が変わってしまう光線を浴びせたとします。」
「なななな、なんのために。なんのために、宇宙人はそんなことするんですか」女が大きな声をあげる。
その声を打ち消すほどの更なる大きな声で俺は答える。
「奥さん!相手は宇宙人ですよ!宇宙人の考えることなんてわかるわけないでしょ!!」

「信じられない」とつぶやいて、女はテーブルに顔を突っ伏す。

女がいつまでも顔をあげないので、俺は諭すように女に語りかける。
「奥さん、宇宙人ていうのは、例えばのはなしです。深く考えないでください。ただね、ご主人がマイルトドセブンになったというのはあり得る話です。なにせ、先ほども言いましたがね、わたしの妻も、なんと偶然にも今日、オレンジになっちまいましてね。ほら。これが、それ。」
スウェットパンツのポケットからオレンジを取り出すが、女は机に突っ伏したままで、みていない。
「ねえ、奥さん。同じ境遇の身の上同士、一緒に考えてみましょうよ。なぜに同じスーパーで働くふたりが、ある日突然、オレンジと煙草に姿を変えたのか。そこに込められた意味。暗喩。コード。因果関係。どうしたら二人は、以前の姿に戻れるのか。もしかしたら、世界を読み解くための鍵が、ここには隠されているのかもしれませんよ」
女は相変わらず突っ伏したままで、顔をあげない。やれやれだぜ。

「奥さん、オレンジを食べながら、煙草を吸ったこと、ありますか」
「え?」
ようやく女が顔をあげた。
「ないです。」
「一度やってみるといい。煙草もオレンジも、すごく不味い。」
「そ、そうですか。」
女は困った顔をした。無理もない。言った俺だって意味がわからない。

ただ俺がわかるのは、世の中には組み合わせってものがあるってこと。
ビールとエビチリ。エビとチリソース。オレオと牛乳のように、最高の組み合わせがある一方で、煙草とオレンジのような最低な組み合わせだってある。
女と女の夫は、その組み合わせが、ちょいとまずかったみたいだ。

ところで、頼んだエビチリがまだこない。

ウェイターをつかまえようと、あたりを見回した時、
女が、なにやらもの言いたげに俺をみているのに気がついた。
「どうしました奥さん、私の推理に何かご不満ですかな」
「いや、あの、実は煙草の他にも、車の中に残されていたものがあったんです」
「ほう。なんでしょう」
「実際に見てほしいので、いますぐうちまで来てもらえますか」急に毅然とした態度になって、女が言う。
「いや、だけど、まだエビチリが…」
「いますぐ!さあ!」
女の迫力に押され、俺は渋々店を出た。

女のうちは多摩川の近くの大きな一軒家で、俺の家から歩いて5分もしないところにあった。
大きなガレージには、赤い外国車と、黒い国産車が止まっていた。
女が黒い国産車のドアを開けた。
女が言った通り、運転席の上に、封の切っていないマイルドセブンがひと箱あった。
「これが、あなたが元は私の夫だと主張するマイルドセブンです。」
なんの変哲もないマイルドセブンを女が俺に手渡す。
「ふむ。なるほど。実にマイルドセブン然としたマイルドセブンですな。これがご主人だったとは信じがたい事実です」
自分でもわけのわからないことを俺は言った。
「それと、これも、みつけたんです。」女は車に乗り込み、助手席前のダッシュボードを開ける。
そこから出てきたのは一枚のスカーフだった。
「これはわたしのものじゃありません。わたしはスカーフをしませんから。あなた、これに見覚えはありませんか」
そう言って女が俺の手にスカーフを押し付けた。
見覚えはあった。妻の好きなエルメスの、妻の好きなオレンジ色の、花柄のスカーフだ。
鼻を押し当て、匂い嗅いだら、妻の匂いがした。

腰に両手をあてて女が言った。
「ねえ、名探偵さん、これでもあなたの奥さんはオレンジになって、私の夫が煙草になったなんていえる?」
俺は何も答えなかった。
「ねえ、きいてる?同じ日に同じスーパーで働く男女がいなくなった本当の理由、もうわかったんじゃない?」
女の声が遠い。
「ねえ、わたしたち、捨てられたのよ。きっと。私の夫はあなたの奥さんと一緒に、どこかに行ってしまったの。わたしとあなたを置いて、駆け落ちしたのよ」
女の声はますます遠く、何を言っているのかよくわからない。

「なんとかいいなさいよ!」

女に腕を掴まれ、我に返った。声の勢いとは反調子に、心配そうな女の顔がそこにあった。顔は涙で濡れていた。

急速に乾いた口の奥から、俺は言葉を絞り出した。
「いいえ、奥さん、あなたは間違っています」
あっけにとられた顔の女に向かって、左手にマイルドセブンを、右手にオレンジをかざして、俺は続けた。
「私の妻は私を捨てたりしません。そして、あなたのご主人もそんなひどいことをするはずがありません。なにかの拍子に、私の妻はオレンジに、あなたのご主人は煙草になっただけのはなしです。、奥さん、この事件に犯人はいません。故に、誰も悪くないし、誰かが傷つく必要はありません。ですから、さあ、もう泣くのはおやめなさい」
「…」
「先ほどあなたは、自分のせいで夫がいなくなったと、自分で自分を責めていましたね。それも間違いです。あなたはよい妻です。そして、私だってよい夫でした。多少酒を飲みすぎたりするきらいもありますが、私は妻に悪いことなどしていません。それに、なにより、私は妻を愛していました。あなただってそうでしょ。ご主人を愛しておられた。そんな我々に、我々が愛したあのふたりが、まさか駆け落ちだなんて、そんなひどい仕打ちをするはずありません。そもそも二人は、同じスーパーで働く以外、何の関係性もないのですし」
「でも、それじゃあこのスカーフはいったい…」
「奥さん、よく考えてください。そのスカーフだけじゃない、私の家のテーブルに、なぜオレンジがひとつあったのか、ご主人の車の運転席に、なぜ煙草がひと箱落ちていたのか」
「それは、だって、たまたま置き忘れたとか、なにかの拍子にポケットから落ちたとか…」
「いいえ、ちがいます。それら全てはあなたの勝手な憶測にすぎません。可能性は高いとしても、100%正しいとはいえません。裏付けとなる証拠も、目撃者も、どこにもいないのですからね。そして、あなたのご主人が私の妻とどこかへ行ったなんてことも、あなたの勝手な憶測であり、思い込みにすぎない。きっとあなたは、このスカーフに妙な勘ぐりをして、妙に悲観的な気分になってしまっているだけなのです。だって、たまたま私の妻のスカーフが風に飛ばされ、開いたままのご主人の車の窓の中へと忍び込んだとか、たまたま私の妻のものと同じスカーフをあなたのご主人が月1回の秘密の女装パーティーで愛用していたなんてことも考えられるわけですからね。世の中はいろんな可能性に満ちています。そして時々は、我々の想像を超えた、不思議なことだって起こりえる。だから奥さん、常識や感情に縛られて、思い込みでものを語るのはやめてください。たいていのそれは間違っている。だって、私の妻とあなたの夫は駆け落ちしておらず、現に、ほら、いまここに、オレンジに姿を変えた私の妻がいて、煙草に姿を変えた、あなたの夫がいるのですからね!」

女はよろめき、壁にもたれてしばし考え込んだ後、
「外の風にあたってくる」と、ふらふらとした足取りでガレージを出た。
俺もすぐにそのあとを追った。
女の後ろについて、夜の街を彷徨った。

妻とふたりでよくいったカツ丼の美味い蕎麦屋の前を通り過ぎた。
道の向いに、エスカレーターに乗る度、どちらかがどちらかの尻に指浣腸をしようとしたデパートがあった。
前を通るたび、高くて不味いのにと二人でせせら笑った行列のできるラーメン屋は店じまいの途中だった。
妻がくしゃみの拍子にコンタクトレンズを落としたT字路を曲がり、俺が妻にいいところをみせようと、子供用の鉄棒で何度も逆上がりをしてみせた公園を通り抜けた。

この街は小さすぎて、俺と妻との思い出がそこかしこに転がっていた。
在りし日のふたりが、そこかしこで笑っているようにみえた。

たぶん女も、同じように夫と自分の姿をみていたんだろう。
時折、なにもない場所で立ち尽くしては、小さく肩を震わせていた。

やがて夜が明けはじめたとき、俺と女は多摩川にいた。
女は手にマイルドセブンを、俺は手にオレンジを持って、土手の階段に腰掛けた。
昇りたての太陽に照らされて、てらてらと光る川面を、ふたりで黙って眺めた。

やがて女が口を開いた。
「探偵さん。わたし、間違っていたわ」
「ん?」
「あなたの言うことが、正しいと思う」
「そうかい」
「あなたの言うとおり、あなたの奥さんはオレンジになって、私の夫は煙草になった。ただそれだけのことなのよ」
「うん」
「だって私、何も悪いことしてないもの。あの人を深く愛していたもの。捨てられるはずなんてない。他の女にとられるわけない。ただちょっと、予期せぬ怪奇現象か宇宙人の悪戯に巻き込まれただけ。ね、そうでしょ」
「うん」
「ばっきゃろう。煙草になんかなりやがって。愛していたぞ」
そう言って、女がマイルドセブンの箱にキスをした。
俺も倣って、手に持ったオレンジにキスをした。
それから女は、慎重な手つきで、煙草の封をはずし、セロファンを剥き、銀紙の出し口を破って、煙草を一本取り出した。
「ねえ。ライターかしてくれない」煙草を咥えて、女が言う。
「いいのかい」
「いいのよ、もう。煙と一緒に、ハイ、さようならよ。ふふふ」
その日はじめて女が笑った。
女に貸したライターが、シュッと小気味よい音をたてて火をともしたのを確認してから、俺は両の手に持ったオレンジに、ぎゅっと親指をくいこませた。
「あら、そっちこそいいの?」
「いいんだよ。だってそのうち腐っちまう。それに、こいつも俺に食われれば本望だろう」

すっぱいオレンジだった。空腹の胃によく染みた。
女はげほげほいいながら煙草を吸った。

「ひとつちょうだい」
女は俺の手からオレンジを一房つまみあげ、口に放り込むや、すぐに煙草を吸った。
「げほげほげほっ。ほんとだー、すごく不味い」

川の上の橋を、銀色の始発電車が通り過ぎた。
河川敷のグランドに、ラクロスのラケットを担いだ若者たちが集まって、朝の挨拶をかわしていた。

「また、一日がはじまるわね」
「また、じゃねえよ」俺は言った。
「やっと、新しい一日がはじまるんだ」

そんなふうにかっこつけて言ってはみたものの、同時に腹がぐうと鳴ったので、女が笑った。
「あははは。もう朝食の時間ね」

女は立ち上がり、尻についた土を払い、まだ座ったままの俺に手を差し伸べた。
女の手を握って俺も腰をあげた。
互いの手を離さぬまま、俺と女は歩き始めた。

投稿者 hospital : 2012年07月07日 16:54