« カルマンの少女 03 | メイン | カルマンの少女 05 »

2014年08月06日

カルマンの少女 04

ぽ。ぽ。ぽ。ぽっぽっぽっ ぽいずン。


あの男のことを考えていた。
あの男の言ったことを思い出していた。


ぽ。ぽ。ぽ。ぽっぽっぽっ ぽいずン。


居間から、スティーブの歌声が聞こえる。

「心で聞こう。そうすればポだったかどうかはさほど問題じゃない。」
「ぽっぽっぽっじゃなかった気がするけど」

スティーブの意味不明な歌に対して冷静に返答しているお姉ちゃんの声も聞こえる。

「大事なのは魂をこめて口ずさむことであって、ポかどうかではない。」
「でも、ポじゃなかった気がする」

スティーブがこの家に住み込むようになってからお姉ちゃんも明るくなった。
最近髪型を変えたのも、綺麗なワンピースを買ったのも、おそらくスティーブが来たことに関係しているのだろう。
それは嬉しい。


私はあの男のことを考えていた。


あの男が私の店に来たのは3カ月ほど前だろうか。
最初は彼の客人らしき男たちを数人連れてきた。
男たちの前に並んだ20人ほどの女の中からあの男は私を選んだ。
あの男の連れてきた客人たちは、この店に来る大抵の男たちと同じようにはしゃいでいた。
はしゃいでいる男は私の目には好意的に映る。扱いやすいから。
あの男は冷めた顔で、ただ自分の連れてきた男たちに適度な相槌と笑いを入れながら、静かに飲んでいた。

私は適度にあの男にお酒を進め、余計な話はしないことにした。

「いい靴ね」

男の靴が目に付いた私はそう口にした。
なんということもない靴だったが、新しいことと、かなり高価なものであることはわかった。
男は私を少しだけ見た後、
「妻が買ってくれたんだ。」
とだけ言った。
「奥さんいるの?独身だと思って期待しちゃった」
心にもない言葉が颯爽と口から出てくる。

「崖っぷちなんだ。妻とは」

は?

「相槌も同情も要らないから黙って聞いてくれ。お酒はタイミングよく注いでくれ。ただ、ボトルを早く空にしようという計算はしないでくれ。純粋にちょうど良いと思うタイミングで注いでくれ。計算が見えた瞬間、オレは・・」

・・どうなるの?

オレは多分、相当つらい気分になる。


― わかったわ。


妻と初めて出会ったのは洞穴だった。その洞穴は青白く光っていた。


― ちょっといい?


黙って聞いてくれ。


― おっけー。了解。


妻と初めて出会ったのは洞穴だった。上海ガニを食べに行った帰りにふらりと寄った洞穴だ。


― やっぱりちょっといい?


なんだ。


― なんで洞穴にふらりと寄ったの?それだけ教えて。


急に、病的なオルタナティブロックを歌う痩せた女の歌を聴きたくなることはないか?


あるような気もする。


オレが洞穴に寄ったのはそういう気持ちだったからだ。
病的なオルタナティブロックよりも洞穴の方があの時の気分に合ったんだろう。


私はそこでお酒を注いだ。
溶けて小さくなった氷が小さな音を立てた。


妻は痩せていた。洞穴の中には更に奥に深く落ちていく穴が開いていて、その縁で妻は穴を見下ろしていた。
オレは不穏な空気を感じた。
ただ、声はかけなかった。多分、同じような気持ちだったからだろう。
妻の横に立ち、同じように穴を見下ろした。
妻は少しだけ私を見た後、話し始めた。

ピラティスとヨガとどう違うのか考えたことある?


返事しなくていいわ。


私はあるわ。

渡辺真里菜はピラティスが得意って聞いたことがある?

私は聞いたことがある。
ただ、それがなんだっていうの?
返事しないで。

・・

毎日、色々なことを考えるわ。
色々なことが頭の中に入ってきて、それについて考える。
ただ、考えた後、辛くなるのよ。
渡辺真里菜に罪はないし、ピラティスにも罪はない。
ただ、ピラティスとヨガが違っていたとして、ピラティスの方がちょっと筋肉使うんだってわかったとして、渡辺真里菜はピラティスが得意なんだってわかったとして、その後、


沈黙するしかないじゃない。


その沈黙ってこの洞穴みたい。
どこまでも深ければいいのに、そうではなくて、結局向こうに出口が見える。


羊たちはなぜ沈黙したのか考えたことある?
バっかみたい・・


妻はそこで泣き出した。
泣いてそこにしゃがみ込んでしまった。
オレは、妻を抱きかかえて洞穴の外に出た。


目の前には揚子江が広がっていた。


夕暮れ時の揚子江がキラキラと光っていた。


そこに沈黙はなかった。

そこで、彼の連れてきた客人の一人の声が聞こえた。
どうやら、次の店に行きたいという話をしているらしい。

会計頼む

男は私にそう言って席を立った。
男は特に私を振り返ることもなく、会計を済ませ店を出て行った。


私はその後しばらく男の言っていたことを考えてみたが、1週間も過ぎた頃には忘れてしまった。

1カ月ほどして男はまた店に来た。
今度は一人だった。


「どうでもいいと思うんだが、この間の話を続きをしようと思ったんだ。実際どうでも良かったか?」

「正直言って来てくれたのは嬉しいわ。すっかりあなたのことは忘れてたけど」


私がそう言うと、男は珍しく嬉しそうに笑った。


 話してたのは・・

羊たちが月曜9時に落合うところまでだったか?


― いや、揚子江のところまでよ。


揚子江のほとりにおにぎり型のマンションを建てるところまでか?


― いや、揚子江がキラキラ光ってたところまでよ。


2度目に誰かに会うのが苦手だと思ったことはあるか?

― どういうこと?

1度目に会う時は、誰に会うかもわからない。どんな人かもわからない。大きな期待もしていない。
ただ、偶然、そこで魅力的な人に出会う。
2度目に会う約束をする。
今度は大きな期待をする。失敗しないかと心配をする。

― それはあるわ。
私に何か期待してる?


全くないとは言わない。
ただ、期待をすると疲れるからな。


― それは寂しいわね。
期待外れで傷つくのもいいじゃない。

私は自分でそう言いながら、傷の度合いにもよると思った。

2度目に妻と会った時。


男はまた話し始めた。

今日は相槌を打ってもいいぞ。

― わかったわ。

2度目に妻と会ったのは動物園だった。

― 動物園って地味ね。

黙っててくれないか。

― わかったわ。

注いでくれないか。

― わかったわよ。

私は男のグラスに酒を注いだ。
と言っても男はまだ一口も酒に口をつけていなかったため、ほんの気持ちだけお酒を注いだ。

― 今日は計算してもいいの?

やめてくれ。

― わかったわ。


妻は黒ヒョウのオリの前にいた。
そもそも、妻は動物園の入口でオレを待っていなかった。
約束の時間、妻は黒ヒョウのオリの前にいた。

ようやく妻を見つけ出した時、妻は黒ヒョウをじっと見つめていた。

そして、近づくオレを少しだけ見た後、また視線を黒ヒョウに戻して話し出した。


黒ヒョウって反対から読むと「うひょー くそ」になるって知ってた?

返事しなくていいわ。

黒ヒョウは突然変異なの。
両親は普通のヒョウなのに産んでみたら黒かったのよ。
動物の世界にはよくあるのよ。そうね。大体10%くらいの確率。
白いワニや毛の白いライオンも同じ。
彼らは当たり前のように仲間外れにされるの。動物にボランティア精神はないから。
あっという間に殺されてしまうものもいれば、逆に努力して誰よりも強くなるものもいる。
ただ、いくら頑張っても仲間と同じにはなれない。平凡にはなれないのよ。

意味深でしょ?
でも、返事はしなくていいわ。

・・・

特に何かを言いたいわけじゃないわ。
ただ好きなのよ。黒ヒョウが。
真っ黒でスマートで。笑わないし。
毛並みもきれいで黒い草原みたい。


あなたに会いたいと思ったわ。
期待もした。
あなたが私を好きでいてくれればよいと思った。
でも怖いのよ。そうじゃなかったら。

― オレは

ちょっと待って。それは良い話?

― 悪い話ではない

わかったわ。それだけで十分よ。

オレ達はそこで動物園を出た。

妻がすっと鍵を差出すと、動物園の目の前の道路に横付けしたポルシェがピコピコという軽やかな音と光を出した。


乗って。


妻の細い首と長い髪が風に揺れた。

私はそこでお酒を注ごうと思ったが、男がまだ口をつけていないことに気づき手を止めた。
それを見た男はまたニコリと笑った後


会計頼む

と言って席を立った。


――――――――――


私はベッドの上で、男の話を思い出していた。


話の続きを聞きたいと思った。


― ぽ。ぽ。ぽ。ぽっぽっぽっ ぽいずン。 ぽ。ぽ。ぽ。

― 考えてるな。

― もしもーし


ふと我に返って、振り返ると部屋の扉の横の壁が人の形になって動いていた。


― 何なんでしょうね。


 何がよ


― なにか嫌な予感がするんですよ。


 なんで急にですます調なの?


― 1つ言っておくが


 なによ


― ヨガは呼吸と一体になることが1つ目の目標だ。その次に正しいポーズ。


 ・・


― それに対し、ピラティスはポーズの動きができてから、呼吸を調整だ。


・・


色々と聞きたいことがある気がした。
でも、私は疲れてしまって、そのままベッドの上に倒れこんだ。


しばらくスティーブがそのまま私を見守ってくれている気がして、私は壁を振り返らずそのまま眠ってしまった。


(つづく)

投稿者 hospital : 2014年08月06日 18:50