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2006年10月14日

50セントの残酷な午後3

50セントがカワカミという偽名を使って収入の大半を寄付金や奨学金に捧げようと決めたのは、贅沢せず暮らせば一生困らないだけの貯金ができたときで、ラッパー・50セントとしての名はすでにもう広く世間に認知されていたし、母にもらった本名もまた、取材熱心なマスコミの知るところとなった後だっただめ、悪童としてのイメージを崩さぬよう、偽名を使う必要があると、そう考えたからだ。
そして、ちょうどそのとき手にしたヘルス関連のフリーペーパーに載っていたのが、パークアベニュー沿いにある皮膚科専門メディカルオフィスの広告であり、そこに載っていたいたのが、Dr.カワカミの名と、その横で微笑む日系アメリカ人の写真であった。

なんだか、すごく人の良さそうな顔をしてるな。
じゃあこの名前をもらおう。
下の名前は、そうだな、フィフティーでいいか。

そんな風に決めてしまった偽名を、
まさかこうして実際に名乗ることになるなんて、
と、50セントは、その奇妙な偶然に内心ひどく驚いていた。
そして、男に伝えたはずのその名を、
今度は自分自身に言い聞かせるかのように、
もう一度、口に出して言ってみるのだった。

「カワカミ。僕はカワカミ」

その名をきいて男が言った。
「カワカミ?日本人の名前だな。何世?」

「さ、3世」

でまかせの言葉が口をつく。
そして同時に、ついた嘘への罪悪感と、
更なる質問が来るのではないかという緊張感が、
胸の中でうずまく。

そもそも、50セントは日系アメリカ人のことなど、ろくに知ってはいなかった。日本のことだって、スシやゲイシャやソニーやトヨタやニンテンドーやYMOや少年ナイフやピチカートファイブやボアダムスのことくらいしか知ってはいなかった。

「三世か。そうだよな。あんた、完璧にアメリカ人って感じだもん。俺の知ってる日本人たちとは全然違う感じがするよ。あ、お茶入れよう」

湯を沸かすために席を立った男をみて、
この話題がこれ以上続かぬような気がした50セントは、
静かに安堵のため息をついた。

そして、元々はクイーンズ生まれの黒人であるから、
あたりまえといえばあたりまえなのではあるが、
日系アメリカ人を装う50セントを指して、
「完璧にアメリカ人」「日本人と違う」といった男の言葉を
頭の中で反芻してみるのだった。
アメリカ生まれのアメリカ育ちの日系人と日本人がどう違うかなんてことなど、これまで一度も意識したことがなかった50セントは、いまひとつピンとこない気分でいたのだ。

「そういや、カワカミって名前、どっかできいたことがあるな」

席に戻るや発せられた男の言葉に、
50セントはどきりとする。
男は必死に何かを思い出そうと、
神妙な顔で腕を組み小さな声で呟いている。

「カワカミ、カワカミ…」

50セントが声をかける。

「そ、それって、もしかして皮膚科医の名前じゃない?」

「いやちがう。なんだったかな…。まあいいや」

男の顔が崩れ、さっきまでの柔和な顔に戻る。

「それで、カワカミはラストネームだろ。じゃあ、ファーストネームは?」

「え、えっと…」

フィフティー。
そう答えても良かったのかもしれない。
しかし、フィフティー・カワカミは寄付金や奨学金のための偽名であったし、せっかく容姿を変えて、別の自分に成り代わったっていうのに、元の50セントのような名前ではどうにももったいないような気がした50セントは、別の偽名を名乗ろうと瞬時に思った。

それでも咄嗟には適当な名前がみつからず、
答えに窮していると、男が言った。

「いいよ別に言いたくなければ言わなくても。でも普通、自己紹介はファーストネームでするもんだぜ。年だって同じくらいなんだし」

「あ、いや…」

名前について考えならがらも、
「年が同じくらい」という男の発言に
50セントは少し驚いていた。
男は自分よりずっと若く見えたし、実際に、今は20歳でもうすぐ21歳になるのだと食事中に聞いた気がした。
もっとも、元の、黒人である自分の顔とくらべたらばの話ではあるが。

妙な沈黙が二人の間に横たわる。
男は50セントが口を開くのを待っている。

50セントは混乱していた。
何かしらの名前を口に出そうと、
考えれば考えるほど、
それを決めることができない。
もうすこし時間が欲しい、
と、50セントは思った。
新しい自分のための新しい名前だ。
慎重になる必要がある。
熟考する必要がある。
なぜならその名は、東洋人になった今の自分にとって、
「ホントウ」の名前になるやもしれないから。

簡単に決められるべきじゃないんだ。
名前ってのはとてもとても重要なことなんだ。

50セントはそう考えた。
そして、その考えはかつて、
ラップを始めた頃の自分に、
「50セント」と名づけたときにも、
抱いた覚えのあるものだった。

きょとんとした顔で50セントを眺める男の目に、
ひどくきまりが悪くなった50セントは、
ようやく口を開いた。

「き、君の名は?」

自分の名前については、
とりあえず後回しにしようと、
そう考えたのだ。

男はすぐにその名を答えた。

「ラビット」

「え?」

「俺の名前はラビット。みんなそう呼んでる」

「ラビット?ラビットって動物の?」

「そう。それ。でも本名はもちろん違うぜ。韓国人の名前。たぶんアメリカ育ちのあんたにはうまく発音できないはず。別のイングリッシュネームもあったけど、今はみんな俺のことラビットって呼んでる」

「ラビットって、自分でそうつけたの?」

「そうだよ」

「なんでラビットにしたの?」

「好きな小説から」

それを聞いた50セントは、
男の名前から真っ先に連想された小説の名を口にした。

「走れ、ウサギ(Rubbit, Run)?ジョン・アップダイクの」

「あたり!」

「ぼ、僕もあの小説、大好きだよ!」

朝にはコーヒーショップの女の子に、
ピクシーズの曲を好きだと伝えられなかった50セントが、
今は躊躇なくそう言った。

「そっか。じゃあ俺たち気が合うな」

50セントは嬉しくなった。
姉が死んで以来、こんなふうに誰かと小説の話などしたことがなかったから。
いつだって彼のまわりにいたのは、テレビの番組表とタブロイド誌のゴシップ記事にしか興味がない、そんな連中ばかりだった。
同士をみつけた。そんな気がしていた。

「四部作とも、全部読んだ?」

「もちろんさ。どれも俺、好きだよ。」

「で、でもさ、あのラビットってやつ、あんまりぱっとしない奴だよね。そ、それでもいいの?」

「ん?かまわないよ。ラビットって名前、なんだかかわいいもの。ははは。ほんとの理由はそれだけかも。ははは」

兎という名のその男は、
そんなふうにして笑うのだった。

細めた目と口元にこぼれた白い歯が、
すこし兎にみえなくもなかった。

つづく

投稿者 hospital : 2006年10月14日 15:34

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