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2006年10月14日

50セントの残酷な午後5

自分自身を50セントと名づけた日のことを思い出しながら、
50セントは新しい名前について考えていた。

なんだっていいんだ。
東洋人に変身した僕はもうラップスターじゃない。
ただの一般人だ。
何の気負いもいらない。
普通の、平凡な、ありふれた、そんな名前でいいんだ。

そのとき、50セントの頭にひとつの名前が浮かんだ。
こいつはいい。これでいいや。50セントはそう思った。

「はい。グリーンティー」

食事に使った皿を洗い終えた兎が、
淹れたてのお茶をいれたマグカップを50セントの前に置く。

「ありがとう…あの…」
思いついたその名前を口に出そうとしたとき、
何かを察したように、兎が口を開いた。
「もしかして砂糖か蜂蜜いる?」
「え?」
「いや、グリーンティー飲むのに必要なんじゃないかと思って」
「あ…う、うん。おねがい」
「はは。やっぱり。あんたほんとにアメリカンだな」
「うん。へへ」

決めたばかりの新しい名を告げる機会を失った50セントは、
冷蔵庫を開け、蜂蜜の瓶を取り出す兎の姿をぼんやり目で追った。
「はい、どうぞ」
そう言ってかわいい熊のかたちの容器にはいった蜂蜜を50セントに渡した後、ふいに兎は冷蔵庫の上に手を伸ばし、そこに置かれたCDラジカセのスイッチを押した。

サラサラとCDが回転する音の後で、
アフリカ・バンバータのプラネット・ロックが流れ出す。
ドイツテクノの重鎮、クラフトワークのヨーロッパエクスプレスをサンプリングに使ったヒップホップの名曲だ。
かつて50セントはこの曲を何度も何度も聴いたことがあった。
ヒップホップをはじめたばかりの頃、ヒップホップの古い名曲をひたすら聴き込み、曲作りの参考にしていたときのことだ。
アフリカ・バンバータ。
グランドマスターフラッシュ。
DJクール・ハーク。
カーティス・ブロウ。
ファンキー・フォー。
そして、ランDMC。
とにかく聴いた。ひたすら聴いた。
そして、ときに感心し、ときに感動し、ときに感極まって涙した。
それはまだヒップホップがアンダーグラウンドミュージックだった頃の、もしくは、ようやくメインストリームに少し近づいた頃の名曲たちであり、多くのヒップホップミュージシャンの憧れであり、ラッパー、50セントの原点だった。

その頃のことを思い出す。

なんだかずいぶん遠い昔のことのようだ。
そして僕はずいぶん遠くに来てしまったみたいだ。

50セントはそう思った。
そして同時に、自分の体が無意識のうちにリズムにあわせて動いているのに気がつき、すぐにそれを止めた。

「なあ、ヒップホップ好きなんだろ?」
50セントのそんな様子をみていた兎が微笑みながら言った。
「え。どうして」
「だって、あんた、さっきまでそんな感じの格好してたじゃん」
「あ」

そういえばそうだった。
雨の中で兎に声をかけられたとき、
僕はヒップホップの格好をしていた。
そりゃ誰がどうみても、ヒップホップを愛してると公言しているような、そんな格好をしていた。

スリムな童顔の東洋人がそんな格好をしているのは、
街の人たちの目にどんなふうに映っただろう。
50セントはそう思った。
そして同時に、そのヒップホップスタイルの服を身にまとって
出席するはずだったレコード会社でのミーティングを思い出し、少し気が重くなった。

僕がミーティングに来なくて、彼らはどうしているだろう。
僕がいなくたって話し合いは進むだろうけど、いつも時間通りミーティングに出席している僕のことを思えば、何かあったに違いないと、あわてて僕を探しいるかもしれないな。

売上枚数と売上利益の話ばかりで、音楽性などまるで解さない彼らを50セントは常々嫌っていた。
50セントの新曲を聴いても、褒めも、感想すらも言わず、
ただただガキが喜ぶようにもっと過激にしろと注文するだけの彼らのことがひどく嫌いだった。
しかし、それが誰であれ、人に迷惑をかけることを50セントはもっと嫌っていたのだった。

でも仕方ないよね。
僕はちゃんと時間通りに会社に行ったんだ。
もっとも、まるで違う人間に変身してだけれども…。

ふいにわいた罪悪感を忘れるため、
今度は50セントが兎に質問をした。

「ラビットもヒップホップ好きなの?」
「いや。兄貴が好きなんだ。俺はよくわからない」
「え、そうなんだ」

50セントは不思議な気分になった。
いま自分が身にまとう兎の兄のものだというその服は、ヒップホップを好んで聴く連中のものではないような気がした。

「変わってるんだよ、うちの兄貴。イエローのくせに黒人の音楽が好きなんだ」
「そうなんだ。でも今はそういう人多いよね」
「まあね。俺もスティービー・ワンダーは大好きだしさ」
「うん。僕もスティービーは大好きだよ。お姉ちゃんとコンサートに行ったこともあるし」
「へえ。うらやましいな。で、そこにイエローはたくさんいた?」
「え…ちょ、ちょっと覚えがないな」
当時、黒人のいち少年にすぎなかった50セントにとって、そんなふうにコンサート会場での東洋人の数を意識したことはなかった。
スティービーのコンサートで覚えていることといえば、
自分の前でスティービーの歌声にあわせ、のりのりに踊るドレッドヘアーの男の髪がひどく臭ったことくらいだった。

「俺がヒップホップ知ってるのはさ、せいぜい50セントくらいだよ。はは」
兎の口から急に自分の名前が飛び出しので、50セントは全身にかっと汗をかき、胸の鼓動が早まるのを感じた。
そして、恐る恐るこう聴いた。

「そ、その、50セントの曲についてラビットはどう思う」
「うーん。そうだなあ…。すごくユーモアがあると思う。歌詞がさ、表面的には過激なんだけど、でも本当は深く読めばすごくやさしくて面白味があるっていうか…。俺、思うんだよね。あの人怖そうな顔してるけど、本当はいい人じゃないかなって」
そんな兎の言葉を聞いて、50セントの胸が益々その動機を早める。
それは驚きや緊張のせいじゃなく、嬉しさのせい。
「ぼ、僕もそう思うよ」
自分で言ったその言葉に、50セントはひどく気恥ずかしくなった。
「あとさ、スヌープ・ドッグも俺よく聴くよ」
知らぬ間に咥えていたタバコの煙を吐き出しながら兎が言った。
「え、ほんと。ドッグさん聴くんだ」
「うん。前の恋人がすごく好きだったよ。なんかさ、顔がかわいいんだって。それに面白いって」
「そうなんだよ。あの人、すごく茶目っ気があって面白いんだよ」
「はは。なんか、知ってるみたいないいぶりだな」
「はは…」

こんなふうに、一般人の口から自分の曲の感想や友人ラッパーの名を聞くとは、50セントにとっていままで夢にも思わぬことだった。そして、何も事情を知らず自分と会話をする兎に、あらためて不思議な気分になり、ついついその顔をまじまじとみつめてしまうのだった。

「なんだよ、変な顔して俺をみて。あ。もしかしてあんたもタバコ吸いたい?」
「いや、僕、タバコは吸わない」
「そりゃ感心だ。俺もやめたいんだけどね、なかなかやめれなくて」
「そうなんだ…あれ?で、でも、ラビットまだ21歳になってないよね」
「あ。ばれた。へへへ」
「タバコ買えるの?アンダー21なのに?」
「はは。大丈夫。ほら、これがあるから」

そういって兎はポケットから財布を取り出し、
さらにその中から一枚のカードを取り出して50セントにみせた。

「これさ、フェイクなんだ」
「えー!すごい!よくできてるね」
「これないとバーにもクラブにもはいれないし、デリでビールだって買えやしないだろ。ほんとニューヨークは子供に厳しいよ」

兎が50セントの目の前につきつけたそのカードとは、
誕生年の箇所が1979年と細工されたNY州の偽造IDだった。
どこからどうみてもホンモノにしかみえない。
50セントは目を細めそこに書かれた誕生年月を何度も読んだ。
そしてまた、そこに書かれたラビットのファーストネームが、たしかにラビットではなく、どう発音していいかわかぬ異国風のファーストネームであり、ラストネームにはCHEと書かれているのを知った。

「これ、チェって読むの?」
「うん、そう」
「へえ。なんだかゲバラみたいでかっこいいね」
「よくいわれるよ」
兎がはにかむ。
「ねえ、ラビット、これどこ手に入れたの?」
「チャイナタウン。まったくチャイニーズは偽造の天才だよ。頼めばあっという間につくってくれぜ」
「僕も欲しい!」
「あんた、ID持ってないの?」
「う、うん。なくしちゃってさ。それに、僕もまだ二十歳なんだ」
50セントは嘘をついた。
それでも、今のファニーフェイスなら二十歳と偽っても疑われることはないと思った。
「そっか。じゃあ今からチャイナタウンのその店に連れてってやるよ。ちょうど学校に行かなきゃいけないし。その途中でよっていこう」
「うん。ありがとう。すごく嬉しいよ。チャイナタウンにそんな便利な店があるなんて知らなかったな」
「なに言ってるんだよ。この街の全ての違法稼業はチャイナタウンにあるんだぜ。常識だろ」
「え、そ、そうなの」
「そうなのって、あんた、いったいいつからニューヨークにいるの?」
「え、え、えっと」
50セントは少しばかり考え込んだ。
生まれたときからニューヨークで暮らしているけど、東洋人に変身したのは今日で、東洋人としてのニューヨークは今日がはじめて。
だから、50セントはこう答えることにした。
「きょ、今日から」
「え?今日?じゃあ今朝ニューヨーク来て、今朝失恋したってわけ?ずいぶん忙しいやつだな」
「へへへ」
「変な人だな、あんた」
呆れたように言いながら兎は壁にかかった時計に目をやる。
「おっと。もう時間があんまりないぞ。すぐ出かけよう」
「うん!」
「あ、服さ、まだ乾いてないかも。その兄貴の服、着ていったらいいよ」
「ありがとう」
「たぶんジャケットは乾いてると思うんだ」
そう言って、兎はヒーターの上に置かれたジャケットを拾い上げ、50セントに手渡す。
50セントがそのヒップホップスタイルの大きなスタジアムジャンパーに袖を通すと、内側のナイロン生地にヒーターの温もりが染み付いているのを感じた。
そして、細身のコーデュロイパンツに黒のタートルネックの今の格好には、そのジャケットがひどく似合わぬ気がしたが、家に帰ればこないだ買ったばかりで一度も外で着たことがないJUNYA WATANABEデザインのモンクレーのダウンジャケットがあることを思い出し、気分がとても明るくなった。

着れるんだ、あの服たちを。
もうヒップホップの服は着なくていいんだ。
もう必要ないんだ。
よおし、それならヒップホップの服はもういっそのこと全部捨ててしまおう。
うちに帰ったらすぐそうしよう

「乾いてない服、どうする?持ってかえるだろ?」
兎が50セントに尋ねる。
「捨てていいよ。もういらないんだ」
「おいおい、ちょっと待てよ。まだ綺麗なのに捨てろって。クリーニング屋の息子にいう言葉じゃないぜ」
「はは。そうだったね」
「ちゃんと俺が洗っといてやるよ。もちろん綺麗にアイロンもかけといてやる」
「ありがとう。本当にありがとう。君には本当に感謝してる」
「わかったわかったって。あんたさっきから、ありがとうって言いすぎだぜ」
「だって本当にありがたいんだもん。どうお礼をしていいかわからないくらいだよ」
「まあいいや。あとさ、あんた、それは忘れず持って帰れよな」
そう言って兎が指差した先には、50セントが今朝じゃらじゃらと身につけて歩いたヒップホップスタイルのための大きなダイヤ入りペンダントが置いてあった。
「ねえ、ラビット、それ、お礼にもらってくれないかな」
「え、なにいってるんだよ」
「お願いだよ。是非君にもらってほしいんだ」
「いいのか。これすごく高そうだぜ」
「うん。いいんだ。もういらないんだ」
「ははん。さては今日ふられた相手にプレゼントされたものなんじゃないのか。それでもういらないって言ってるんだろ」
「う、うん、まあそんなところだよ」
実際に、ペンダントを50セントにプレゼントしたのは、レコード会社の幹部だった。
50セントのシンボルとしてデザインされ、常に身につけることを義務付けられたそれは、カリスマラッパー50セントモデルと妙打たれ、著作権つきのレプリカが巷で売買されていた。
つまり、そのペンダントはレコード会社による錬金術のひとつにすぎず、50セントにとってはひどく忌々しいものだったのだが、身に着けていないとレコード会社の連中にこっぴどく文句を言わため、惰性で首にぶら下げているだけのことだった。
「ラビット。お願いだからそれもらってよ。売ればいいお金になると思うし」
「金のことは別に興味ないけどさ、一応俺が預かっとくよ。必要になったらいってくれよな。つまり、恋人とよりを戻したらってことだよ。すぐに返してやるから」
「うん。わかった。ラビットに預けとく」
「よおし、じゃあチャイナタウンに行くか」
兎が椅子から腰をあげながらそう言った。
「うん。チャイナタウンでフェイクIDを手に入れに行こう!」
そう元気よく口に出したとき、50セントの頭に再び、さっき決めた新しい名前のことが浮かんだ。

そうさ。いまの顔の写真がついたIDさえ手に入れれば、
僕は完璧に新しい自分になりすますことができる。
警備員に怪しまれず、どこへだって自由に出入りできる。
オーシャンズ・イレブンのジョージ・クルーニーみたいにうまくやれって、あの年配の警備員は言ったけな。
うまくやるさ。フェイクIDをホンモノのIDにしてみせるさ。
もうあんなふうに嫌味を言われることはこの先きっとないはずさ。

カーキ色のコートを羽織り、
ニットキャップを被りつつある兎に50セントが声をかける。

「ねえ、ラビット」
「ん?」
「僕の名前のことなんだけど」
「な、なんだよいきなり。あんたほんとの変だな」
「僕の名前はジョージ。ジョージ・クルーニーのジョージ」
「おいおい、そんな例えださなくたってわかるよ。ジョージだろ。ものすごく普通の名前じゃないか。その名前のやつだけで、州がひとつできるくらいいるぜ。ブッシュとクリントンがいる州がさ」
「ねえ、だからこれからは、僕のことジョージって呼んでよ!」
「ははは。わかったよ、ジョージ。よろしくな」

兎がひどくおかしそうに笑いながらそう言った。
50セントもそれに負けないくらいの満面の笑みで答えた。

「よろしく!」

つづく

投稿者 hospital : 2006年10月14日 15:40

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