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2006年10月14日

50セントの残酷な午後7

ヒップホップ生誕の歴史には二つの説がある。
ひとつは一般的に良く知られた、70年代後半のブロンクスで、偶然に扱ったターンテーブルから生まれたという説。
もうひとつは、18世紀半ばの植民地時代、場所を同じくブロンクスとし、オランダ人入植者家族であるところのヴァン・ヒープハープ家の地下室で生まれたという説。

当時、ヴァン・ヒープハープ邸には三人の黒人が使えていた。
オランダ人入植地・ニューアムステルダム、その後イギリス人入植者たちに征圧され、ニューヨークと改名されるその土地が、他の主な植民地帯とくらべてずっと黒人たちに寛容な場所であったとはいえ、その身分はやはり奴隷にすぎない。
殺風景な地下室を寝床として与えられ、外では綿花や小麦の畑、家では給仕として朝から晩まで働き、夏の夜は蒸し暑さに、冬の夜は寒さに耐えながら眠る。
彼らはそんな生活をしていた。

あるひどく寒い冬の夜のことだった。
三人は暖をとるためにダンスを踊っていた。
彼らの寝床であるとともに倉庫代わりにも使用されていたその地下室には、壊れてもう入用ではなくなった木製の脱穀機や収穫を収めるための壷などが置かれていた。
ひとりが壷の裏を太鼓のようにして叩く。乱暴に、それでいてリズミカルに叩く。これが後に電子楽器によるブレイクビーツへと昇華することとなる。

もうひとりは脱穀機の車輪をまわす。
強くまわす。反対に強くまわす。強くまわす。また反対に強くまわす。すると木製のその車輪から、きゅっきゅきゅっきゅと木のきしむ音が鳴り出す。その音が、壷から溢れ出すビートに、アクセントとして重なる。スクラッチの始まりである。

残りの一人が音にあわせてダンスを踊る。
どうしても気分の沈むその地下室で、無理に笑ってみせるために、できるだけ滑稽に踊る。そしてときに激しく、その身体能力の高さを誇るように、難しい技を繰り出す。三人が交代でダンスを行い、それぞれの技を競い合う。こうして、ブレイクダンスが生まれたのだった。

ダンスが興に乗ってきた頃、ひとりが歌いだす。
まるで誰かに語りかけるようにして歌いだす。
その歌の歌詞には、祖国を離れ奴隷として暮らす彼らの悲哀と、白人たちへの不満が暗喩的にこめられている。偶然耳にした白人たちにわからぬように、隠喩と象徴を散りばめ、ときにユーモラスに、ときに辛辣に彼らを誹謗、中傷していたのだった。

そんなふうにして三人が過ごす地下室の壁にはさまざまな絵が描かれていた。むき出しの土壁があまりに寒々しすぎるので、ひとりがそこに絵を描いたのだ。主人たちが暮らす部屋の壁や家具のためのあまった塗料で描かれたそれは、カラフルで、力強く、そしてシンボリックで意味深なものがばかりだった。そして、そんな落書きたちが、250年ほどの時が過ぎた後に、グラフティアートと呼ばれるようになる。

こんなふうにしてヒープハープ邸の地下室で生まれたこれらの文化を、その家主の名にちなみ、全てひとくくりにヒップホップと呼ぶこととされたのは20世紀の後半のことである。
いまやメインストリーム、かつてはアンダーグラウンドミュージックと呼ばれたヒップホップは、文字通り暗い地下室の中で生まれ、長い間公に知られることなく、地下組織的に受け継がれてきたのだった。

歴史的証拠や文献などどこにもなかった。
それでも50セントは以上の話を信じていた。

もっとも、全ては幼い頃に姉から教えられた話であり、姉がこの世にいない今となっては、その真実性を確かめるすべもなく、いささか疑わしいように思ってもいたのだが。

つづく

投稿者 hospital : 2006年10月14日 15:54

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